2010年11月17日 (水)

桜(『第一集・第二話』)

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                 桜・第一集・第二話

                      1

     昔、或る国に、一人の落武者が有った。その年の春、
    その国で合戦(かっ せん)が有った。三日続いたその
    合戦で、主(あるじ)が敵軍に捕らえられ、自軍が敗退し、
    その武士は、落武者と成った。
     そして、その白馬と共に、敵 の落武者狩りから逃れ
    ようと、森に逃れたのであった。
     落武者は、傷つき、疲れ果てて居た。背には、もう数本
    の矢しか残されて ゐなかった。そして、何より、落武者は、
    一人であった。
     数日前、共に戦っ た自軍の武士達の多くは、合戦で
    命を落とし、或いは、落武者狩りの犠牲と 成って居た。
    そして、生き残った者たちも、散り散りと成り、野をさ迷ひ、
    隣国に逃れる中、その落武者は、わずかに生き残った
    仲間を離れ、一人、 馬と共に、森へと逃れたのだった。
    そして、森を進む内、落武者は、道に 迷ひ、自分が何処
    に居るのかも、分からなく成ったのだった。


                    2

     どれほど森を進んだ時であろうか。落武者は、何処
    からか、風が来る のを感じた。その微かな風に、落武
    者は、森の出口が近い事を予感した。 そして、森の中
    の道を、馬に乗ったまま進むと、落武者は、森が、終は
    る事に気が付いたのだった。見ると、そこは、大きな池
    のほとりであ った。そして、道は、森を出て、その池の
    ほとりに続いて居るのであった。


                    3

     馬は、落武者を乗せて、その池の畔へと出た。
    見ると、その池は、 満開の桜に囲まれて居た。
    そして、その桜を水に映しながら、鏡の 様に、
    静まり返って居るのであった。


                    4

     落武者は、自分の目を疑った。それほど、そ
    こに広がる桜は、見事 だったのである。落武者
    は、自分が、その満開の桜の光景の中に居る
     事に気が付いたのであった。
    「夢を見てゐるのか?」と、落武者は思った。
    だが、それは夢ではないのだった。落武者は、
    馬の背中に乗ったまま、その満開の桜の中を
    岸に沿って進んだ。

                   5

    その満開の桜の中で、落武者は、自分が
   合戦に敗れた事を忘れてゐた。


                   6

    「ここは何処なのだ?」と、落武者は、心の中
   でつぶやいた。 もしかすると、ここは、死者の世
   界か?と、落武者は、自問した。 だが、ここが、
   地獄の様には思へなかった。ならば、ここは極楽
   か?だが、自分は、これまで多くの殺生を重ねて
   来た武者なのだ。 その俺が、数多くの殺生にも
   関はらず、極楽に入れたものなのか? もしかする
   と、この馬と共に、極楽に、ほんの刹那(せつな)
   だけ、 迷ひ込んだのか?と、落武者は、心の中で
   自問した。その間にも、 馬は、静かに、落武者を
   乗せて、桜の下を進み続けた。

                    7

    辺りには、物音一つ聞かれなかった。その静寂
   の中で、落武者は、 著しい疲労に襲はれた。最早、
   馬に乗って居る事も限界であった。
    その桜に囲まれた池の岸で、落武者は馬を止め、
   下馬した。そして、 その場で数歩だけ馬を引くと、
   池辺の桜の下で、地面に倒れ、その まま、その場で
   仰向けに横たわってしまったのだった。


                   8


     落武者は、その桜の下で、深い眠りに落ちた。

                   9

   どれだけ時間が流れたであろうか。落武者は、眠
  りから目覚めた。
   落武者は、ゆっくりと起き上がり、地面の上に座っ
  たまま、辺りを 見回した。そのまどろみの中で、落
  武者は、自分が何処に居るのかを、直ちには思ひ
  出せなかった。落武者は、桜の下に居た。そして、
  辺りには、霧が立ち込めて居た。そして、目の前
  には、静まり返った池が有った。
  「そうであった。」と、落武者は眠りに落ちる直前の
  事を思ひ出した。
  「俺は、合戦に破れ、森の中に逃げ込んだのだった。
  そして、 迷って、この池の畔(ほとり)にたどり着い
  たのだった。」落武者は、そう心の中でつぶやいた。
  そして、自分が居るその池の畔を、見回したのだった。  

                  10

   落武者は、満開の桜に囲まれて居た。落武者の
  頭上も、周りも、 辺りは、桜の花で一杯であった。
  それは、先程、ここに迷ひ込んだ時と全く変はって
  居なかった。ただ、気が付くと、落武者の馬が、
  いつの間にか、そこから姿を消して居たのだった。
  落武者は、周囲 を見回した。だが、自分をここに
  連れて来た馬は、いつの間にか、何処かへ消え
  てしまって居るのだった。


                 11

   落武者は、何処からが現実で、何処からが夢か
  が分からない心持ちで、馬の姿を探した。すると、
  その落武者の目に、池の向こう岸を 歩む、馬の姿
  が、入ったのだった。


                12

   「そこに居たか。」と、落武者はつぶやいた。
  落武者の馬は、その白い姿を池の水面に映し
  ながら、池の向こう岸を、ゆっくりと、 音も無く、
  歩いて居るのだった。


                 13

   落武者は、馬を追おうとはしなかった。落武者は、
  自分の馬が、 対岸を歩くのを見つめながら、心の
  中でつぶやいた。
  「何処にでも行くが良い。」
  馬は、その白い姿をゆっくり移動させて居た。
  「お前にはつらい思ひばかりをさせた。だが、戦さ
  も終はりじゃ。 もうこんな落武者と成った主(あるじ)
  を乗せる必要は無い。何処 へなりと行くが良い。
  苦労ばかりさせたこの主を許してくれ。」
  落武者は、心の中で、そう馬に語り掛けた。そして、
  馬と、池の水に映るその白い姿を幻を見る様に見つ
  め続けた。

                  14

   すると、馬は、姿を消した。落武者の白馬は、池の
  向こう岸の桜の木々の間へと、姿を消した様だった。
  馬は居なく成り、落武者は、池のこちら側で、本当に
  一人きりと成ったのであった。

                   15

   辺りに物音は聞かれなかった。その静けさの中で、
  落武者は、馬が姿を消した池の向こう岸を見つめた。
  池の向こう岸に広がる桜の木々は、合戦の勝敗とも、
  落武者の運命とも無関係に、そこで静かに咲いて居た。
  そして、静まり返った池の水の上に、絶えず、その花
  を散らして居るのだった。

                  16

   落武者には、その向こう岸の桜の光景が、極楽の
  世界の様に見えた。  



         17

  落武者は、その向こう岸の世界へ行きたいと思った。  

                18

   落武者は、その場に座った。そして、静かに、自分の
  刀を手にした。落武者は、刀を右手にしたまま、自分の
  目の前の池を見つめた。池は、静まり返り、鏡の様に、
  池の周りの桜を映し続けて居た。落武者は、その水に
  映し出された桜を見つめながら、自分がこれから向か
  ふ世界の事を思った。      


                19

   落武者は、この世に、最早何の未練も持って居なか
  った。
   戦さに破れ、国を失った自分に、武士として、何が
  残されて居ると言ふのだろうか。落武者にとって、答え
  は明らかだった。自分が、この世で生き続ける理由は、
  最早何も無いのである。自分に残された道は、ここで、
  切腹する事だけである。
   落武者は、早く、この世を去りたいと思ふばかりだっ
  た。落武者は、自分の刀を手に、この桜が満開の池
  の畔(ほとり)で、自ら命を絶つ事に心を決め、前を見
  つめた。
     

                20

    落武者の前には、先程と変はらない、静まりかえ
   った池とその向こう岸に広がる桜の光景が有った。
   その静けさを見ると、人間の世界で起きた争いは、
   まるで無かったかの様であった。落武者は、その
   水面を見つめて、自分のこれまでの一生に思ひを
   はせた。そして、その静まり返った水面を見つめな
   がら、落武者は、鎧(よろい)を外し、腹を出して、
   切腹の用意をしたのだった。落武者は、息を吸ひ、
   目を閉じた。
    
     

                21

     何も聞こえなかった。その静けさの中で、落武
    者は、刀を握った。そして、もう一度、静かに目を
    開けた。落武者の前には、先程と変はらぬ鏡の
    様な池が広がって居た。そして、その池の向こう
    岸の桜の光景も、全く変化して居なかった。
     その光景を目にしながら、落武者が、刀を自分
    の体に立てようとしたその時である。落武者は、
    その池の向こう岸に、何者かが立って居るのを目
    にしたのであった。


                22

     それは、白い衣に身を包んだ女人(にょにん)で
    あった。
     その女人は、池の向こう岸に、満開の桜を背に
    立ちながら、じっと、こちらを見つめて居るのであった。
    その女人の姿に、落武者は、目を奪はれ、体が動か
    なく成るのを感じた。  
         

                23

     落武者は、刀を手にしたまま、その白い衣の女人
   を見つめた。
               

                24

     それは、明らかに、この世の女人ではなかった。姿形は、
    人間の女人であったが、その存在その物が、余りに気高く、
    神々しかったからである。落武者は、刀を手にしたまま、
    そうして、その場で動けなく成った。女人は、池の向こう
    岸から、落武者を見つめて居た。女人は、落武者が、そこ
    で何をしようとして居るかを知って居るかの様であった。
    落武者は、その神々しい何者かに見つめられながら、自分
    も相手を見つめ続けた。   
               

                25

     女人の後ろには、満開の桜の木々が、夢の中の光景の様
    に広がってゐた。
               

                26

     落武者は、刀を離した。落武者は、刀を地面の上に置き、
    その場で正座した。そして、向こう岸の神々しい女人に向
    かって、合掌すると、目を閉じ、何事かを念じた。辺りは
    静まり返ったままであった。その静けさの中で、落武者は、
    そうして、ひたすら、合掌を続けた。    
               

                27

     永い時間が流れた。落武者は、静かに目を開けた。見る
    と、池の向こう岸から、その女人の姿は消えて居た。そし
    て、そこには、ただ満開の桜が在るばかりであった。    
               

                 28

     落武者は、誰も居ない池の向こう岸を見つめた。今、自
    分の前に現れた、あの神々しい女人は、一体、何者だった
    のだろうか?物の怪(もののけ)などではないと、落武者
    は確信して居た。あの様に美しく、気高い姿が、物の怪な
    どの姿だとは、考えられなかったからである。いずれにし
    ても、あの神々しい女人は、今、自分に何かを告げる為に
    現はれ、そして、消えたのである。落武者には、そうとし
    か思へなかった。とすれば、あの神々しい女人は、一体自
    分に何を告げようとして、ここに現れたのだろうか?        
               

                29

     それは、自分に生きよ、と告げる為ではなかったのか?
    落武者は、そう自問し、確信したのだった。      
               

                 30

     落武者は、誰も居ない、池の向こう岸に向かって、合掌
    した。そして、そこに広がる満開の桜の光景を見つめた。   
               

                 31

     桜は、静まり返って居た。そして、その静まり返った桜
    の下に、あの白い衣に身を包んだ女人は、二度と姿を現は
    さなかった。   
               

                32


            落武者は、池を後にした。  


               


                33

     二十五年後の事である。その春、この池の畔(ほとり)
    に、杖を持った一人の僧の姿が現れた。僧は数珠を持ち、
    小声で念仏を唱えながら、森の道を歩み、この訪れる者の
    稀な池を、連れの者も無く、一人、訪れたのであった。空
    は晴れ、池は、青空とその下の満開の桜を映し出して居た。    
               


                34

    僧は、その国の、とある寺の高僧であった。その高僧が、
   伴の者も無く、桜の古木に囲まれた、その池を一人訪れた
   のである。僧は、眼前の池とそれを囲む桜に向かって読経
   し、合掌して、数珠を鳴らした。   
               


      35

 池は、静まり返って居た。そして、青空に浮かぶ雲と満
開の桜を映し出して、その僧を迎えた。   
               

            36

  僧は読経を終へると、満開の桜が広がる池の向こう岸に
 向かって、深々と頭を下げた。そこは、二十五年前、あの
 白い衣の女人が姿を現はし、消えた場所である。その対岸
 の一隅に向かって、僧は、深く頭を下げ、礼をしたのであ
 った。

               

      37

   そこには、誰の姿も無かった。その向こう岸だけでなく、
  その池の周りには、僧以外、誰の人影も無かった。池の周
  りには、ただ、満開の桜が有るばかりであった。
               

            38

   僧は、齢(よわい)六十に近いかと思はれた。僧は、物
  静かな表情をして居たが、その顔には、何か、厳しい物が
  感じられた。そして、その体つきは、その年の者とは思へ
  ぬたくましさが、明らかに残って居た。だからこそ、僧は、
  その年で、この人里離れた池まで、一人、歩いてやって来
  れたに違い無かった。僧は、ここまで歩いてやって来た疲
  れも見せず、その池の岸に立ち続けた。
               


       39

   池は、二十五年ぶりにこの池を訪れた僧を、満開の桜で
  迎えて居た。    
               


              40

   その僧は、二十五年前、合戦に破れて馬と共にこの池に
  たどり着いた落武者であった。落武者は、この池の畔で、
  自ら命を絶とうとしながら、ここで何者かに出会ひ、自刃
  を思ひ留まり、ここを後にした。その後、この落武者は、
  刀を捨て、この国の寺で仏門に入ったのであった。そして、
  その寺で、多くの者に認められ、尊敬を集めた落武者は、
  二十五年の時を経て、この寺の高僧と成ったのであった。
  その高僧と成った落武者が、この日、この池の畔を再び訪
  れたのであった。        
               

              41

   僧は、その池と池を囲む満開の桜を見守り続けた。そし
  て、あの日の事を昨日の事の様に思ひ起こした。
   僧は、あの合戦の日、戦場から逃れ、ここで自刃する事
  を選んだ。だが、自分がここでそれを思ひ留まり、その後、
  この二十五年の年月を僧として生きる事と成ったのである。
   僧は、自分の運命の奇異さを思った。自分のこの二十五
  年の生は、あの時、この岸で自刃する事を思ひ留まった事
  の結果であった。だが、自分が自刃を思ひ留まった理由は、
  思ひ起こすまでも無く、あの時、自刃しようとした自分の
  目の前に、あの白い衣の女人が現れたからであった。あの
  時、自分の前に現れたあの神々しい女人は、一体、何者だ
  ったのであろうか?僧は、それを知りたかったのである。      
               


        42

   僧は、池の向こう岸を見つめた。そこには、あの日と同
  じ様に、満開の桜が広がって居た。僧は、その向こう岸に
  向かって、池の畔を歩き始めた。           
               

               43

   池は、あの日と同様、満開の桜に囲まれ、静まり返って
  居た。           
               

              44

   僧は、あの白い衣を着た女人が現れた岸辺に辿り着いた。
  僧はそこで立ち止まった。そして、その場から、その静ま
  り返った池の水面を見つめた。
   池は、太陽の光を反射して、きらめいて居た。そして、
  その輝く水面には、桜の白い花びらが、無数に浮いて居た。
  その光景に、僧は、「美しい。」と、独り言をつぶやいた。      
              

             45

  僧の頭上には、満開の桜とその上に広がる春の青空が有
 った。風は無く、光と静けさが溢れるその岸辺で、僧は、
 極楽に居る様な錯覚を抱いた。      
               

             46

  「ここは極楽か?」僧は、心の中で自問した。「ならば、
 あの時、何故に自分は、ここまで来なかったのだろうか?」
 僧は、二十五年前、対岸でこの場所を見つめて居た自分の
 事を思った。そして、あの時、ここに現れた白い衣に身を
 包んだ神々しい女人の事を想った。
 「あの神々しい姿の女人は、何者であったのだろうか?」
  僧は、既に二十五年間考え続けて来た同じ問ひをもう一度
 心の中で繰り返した。 
  その時であった。僧は、自分が立つその岸辺の一隅に、
 一体の石仏が有る事に気が付いたのだった。         
               

             47

  それは、馬頭観音であった。岸辺に立つ一本の桜の木の
 根本に、その馬頭観音の石仏が有る事に、僧は気が付いた
 のであった。    
               

             48

  僧は、合掌した。そして、両目を閉じて、頭(こうべ)
 を垂れた後、再び頭を上げて、目を開けた。僧は、目の前
 のその小さな石仏をじっと見つめた。それは、素朴な、そ
 して柔和な顔をした馬頭観音であった。その温かい表情に
 は、微笑(ほほえみ)が浮かんで居た。この人気(ひとけ)
 の無い池の畔で、この様な石仏に出会った事は、僧にとっ
 て、意外であった。僧は、その石仏を見つめながら、誰が、
 この訪れる者の稀な池の畔に、この馬頭観音を置いたのだ
 ろうと、いぶかしんだ。     
               

             49

  その馬頭観音の顔と姿を見つめながら、僧は、何故か、
 深い、懐かしい感情に襲はれた。僧は、思はず、自分はこ
 の馬頭観音を見た事が無かっただろうか?と自問した。遠
 い昔、自分は、この馬頭観音の前に立った事が有ったので
 はないか?と言ふ不思議な感情に、僧は、襲はれたのであ
 る。
  僧は、もちろん、今、初めてこの石仏の前に立って居る
 のである。二十五年前、落武者と成ってこの池に辿り着い
 た時、僧は、向こう岸で自刃しようとした事は有ったが、
 こちら側の岸に来ては居ないのである。だから、僧は、こ
 の場所に立った事は、もちろん、一度も無いのである。そ
 れなのに、この馬頭観音の前で、自分の心の中に起こった
 この懐かしさは、一体何なのだろうか?僧は、不意に自分
 の心に湧きあがったその感情に驚かされた。         
               

             50

          すると、風が吹いた。
              

               

              51

  それは、辺りの桜を微かに動かす微風であった。その風
 は、殆ど音を立てずに、梢に咲く満開の桜を揺らして、そ
 のまま静かに止んだ。僧は、その微かな風を感じた。そし
 て、その静かな風の中で、目の前の石仏の周りに風が運ん
 だ桜の花びらに目を落とした。花びらの上には、その微か
 な風に揺れる木漏れ日が有った。僧は、その地面の上の桜
 と木漏れ日の光景を見つめた。その光景に、僧は、自分が
 生きて居る事の喜びが、心に溢れて来るのをどうする事も
 出来無かった。      
               

              52

  「これは、煩悩なのか?悟りなのか?」僧には、自分の
 心に溢れるその喜びが、仏門に在りながら、まだ修行が不
 足して居る自分の煩悩による物なのか、それとも、修行に
 よって到達した悟りであるのかが、分からなかった。ただ
 一つ明らかな事は、この喜びが、二十五年前、自分がここ
 で自刃を思ひ留まった事の結果であると言ふ事であった。
 そして、それは、あの日、ここに現れた、あの白い衣に身
 を包んだ神々しい女人の導きによってもたらされた物なの
 である。その白い女人が現れた場所で、僧は、今、桜の下
 で、この馬頭観音に対面して居るのであった。僧は、その
 事の意味を思ひながら、その場に立ち続けた。          
               

             53

  「煩悩と悟りは・・」と、僧は思った。
 「実は、紙一重の物なのかも知れぬ。」僧は、そう思ひな
 がら、目の前の馬頭観音を見つめた。石仏は、何も答えな
 かった。答える代はりに、その上で踊る木漏れ日が、その
 馬頭観音が、微笑んで居るかの様な錯覚を僧に与えるばか
 りである。その馬頭観音の姿に彫られた石仏の前で、僧は、
 自分の周りで時間が流れて居る事を忘れた。自分は、その
 止まった時間の中で、永遠に、この桜の下で、この石仏に
 対峙して居られるのではないか?僧は、そんな錯覚に囚は
 れたのであった。
  その時であった。僧は、近くに人の気配が有る事を感じ
 た。誰かが、こちらにやって来る。僧は、自分が歩いて来
 た池の岸を、誰かが、こちらに歩いて来る足音が有るのに、
 気が付いた。そして、僧が、その足音がする方向を見やっ
 た時、その足音の主は、僧の前にその姿を現したのであっ
 た。 

       54
            
               

  それは、樵(きこり)であった。初老の小柄な樵が、池
 の岸を歩いて、この場所にやって来るのに、僧は、そこで
 出会ったのであった。樵は、僧の姿を見ると、少し驚いた
 表情を浮かべた。樵は、立ち止まり、その場で、僧に向か
 って合掌した。僧も、それに応えて、樵に向かって合掌し
 た。樵は、それから、僧に礼を送って、その場を通り過ぎ
 ようとした。僧は、その通り過ぎようとする樵に「もし。」
 と声を掛けた。
 「お尋ね申したいが、よろしいか。」僧は、通り過ぎよう
 とする樵に尋ねた。
 樵は、立ち止まって、「はい。」と答えた。
 僧は、樵に頭を下げた。そして、樵に、目の前に在る、馬
 頭観音の姿に彫られた小さな石仏の由来を尋ねた。
 「お尋ね申したい。こちらにおわする御仏(みほとけ)の
 言はくを御存知か。」 
 樵は、「はい。」と答えた。
 僧は、うなずき、更に尋ねた。
 「いかなる言はくの御仏か?」
 樵は、石仏に合掌した。そして、もう一度僧に顔を向ける
 と、僧にも再度合掌して答えた。
 「聞き及びますには、昔、この場所で、死んだ馬が有り、
 その馬の供養に、この土地のお坊様が、ここで、この仏様
 を彫られたとの事で御座居ます。」
 「馬の供養に?」樵の話の意外さに、僧は、思はず、樵の
 言葉を聞き返した。     
               
                                  


              55

 「昔、この辺りで合戦が御座居ました。」樵(きこり)は、
 そう言って、僧の目の前に在る馬頭観音について語り続け
 た。
 「その合戦の折り、この辺りで、白馬が一頭、息絶えて居
 たと言ふ事で御座ります。恐らくは、合戦に敗れた落武者
 の馬ではなかったかと、この辺りの年寄りは申しておりま
 す。」
  僧は、樵の言葉を無言で聞いた。
 「その白馬を見つけたこの土地のお坊様が、憐れ(あはれ)
 に思はれ、馬の供養にお彫りになられたのが、この仏様だ
 と聞いております。」そう言って、樵は、その馬頭観音に
 向かって合掌した。
                


              56

  樵は、僧に深々と頭を下げ、それから、その場を去った。
 僧は、合掌して樵を見送り、再びその場に一人と成った。
 僧は、馬頭観音の石仏を見つめ、自問した。あの日、ここ
 に現れたあの白い衣の女人は、自分の愛馬の化身だったの
 だろうか?・・・
  あの白い衣の女人は、自分と共に合戦を戦ひ、傷ついた
 白馬が、自分の自刃を止める為に、ここに現れた姿だった
 のだろうか?僧は、余りの驚きに、目の前の馬頭観音から
 目を離す事が出来無かった。
                

              57

  馬頭観音は、何も答えなかった。ただ、その上に、桜の
 枝を通してこぼれる木漏れ日が踊って居るばかりである。     
                

              58

  僧は、馬頭観音に合掌した。そして、あの日、自分の前
 から姿を消した自分の馬の為に、数珠を鳴らし、経を唱え
 た。僧の足元では、桜の花びらが、微風に吹かれて、地面
 の上を踊って居た。        
                

              59

  読経を終へると、僧は、池を後にした。池は、満開の桜
 を映しながら、いつまでも、鏡の様に、静まり返って居た。 

                 
        
             (終)


 平成20年4月9日(水)--4月29日(火)
                  (昭和の日に)

                西岡昌紀(にしおかまさのり)

(この作品はフィクションであり、実在の人物、出来事、等とは
 一切関係が有りません。この作品の著作権は、他の全ての
 西岡昌紀の作品と同様、常に、一貫して、作者である西岡
 昌紀に有ります。批評、批判の為の引用は自由です。全文
 を引用しても構ひませんが、引用する場合は、仮名遣いを
 含めた全ての表現について、変更を禁じます。この作品の
 概要または部分を他の小説、童話、詩、戯曲、随筆、日記、
 旅行記、劇画、アニメーション、映画、ドラマ、ゲーム、広告、
 その他に転用、利用する事は固く禁じます。(作者))

*

2007年6月26日 (火)

桜(『第一集・第一話』)

数年前に私が書いた短編小説の一つを御紹介
致します。

題名は、『桜』です。

 ただし、『桜』と言ふ題名で幾つも小説を書く積もりなので、この作品には、『桜・第一集・第一話』と言ふ題が付いて居ます。


 遠い昔、日本の或る国で、無実の罪で牢に入れられた侍と領主の物語です。


平成19年4月10日(火)

散る桜を惜しみながら

          西岡昌紀

http://nishiokamasanori.cocolog-nifty.com/blog/


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(平成14年(2002年)の前書き)

はじめまして。西岡昌紀(にしおかまさのり)と
申します。

今年の桜はもう終わろうとしています。
思へば、本当に桜が早く咲き、早く散って行く年
ですが、これから、一年を通じて、桜にまつわる
短編小説を皆さんにお送り致します。桜が散るのは
仕方の無い事ですが、心の中の桜は散らないと信じます。

そんな皆さんの心の中にある桜が、いつまでも美しく
咲き続ける事をお祈りして、この短編集の開始の御挨拶と
させて頂きます。


2002年4月1日(月)


        西岡昌紀(にしおかまさのり)


桜(『第一集・第一話』)


                桜・第一集・第一話

                      1


  昔、或る国に一人の罪人が在った。罪人と言っても、真(まこと)の罪人にはあらず、無実の罪にて捕らえられた、 その国の名高い武士であった。
 七年前の桜の頃の事である。その春、その国の領主に、家臣の間に謀反(むほん)の企てが有るとの密告をした者が有った。その密告は、偽りであったが、その様な密告が為された理由は定かでない。しかし、その密告は、謀反を企てたるは、その武士であると名指しした為、領主は、武勇の誉れ高く、家臣の間に人望厚いこの武士を、花見の席で捕らへさせたのであった。
 真実を言うならば、武士は、領主の家臣の中で最も高潔な、最も信頼すべき人物であり、もちろん、謀反など企てた事は無かった。しかし、領主は猜疑心深く、人の心を知らぬ人間であった。その為、領主は、愚かにもこの偽りの密告を信じ、自らが最も信頼すべきこの武士を謀反人と信じ、捕らえさせたのであった。
 領主は、武士の妻と二人の子を捕らえさせ、城の者に斬殺させた。そして、武士自身については、武士をあえて殺さず、城下の寺の墓地に在る土牢に幽閉し、そこで、死よりもつらい苦しみを与える事としたのであった。
 こうして、武士は罪人とされ、土牢の中で生かされ続ける事と成ったのであった。領主は、こうする事で、武士が領主に自刃する事を懇願すると信じた。そして、それを懇願させ、許す事で、ただ一言の弁解もせず、泣く事もせず、無言でこの運命を受け入れたこの武士に、その時、自分が初めて勝利出来ると思ったのである。だが、罪人は、領主に自刃を請おうとはしなかった。罪人は、その土牢の中で、生き続ける事を選んだのであった。
 そうして、七年の時が流れた。その国に、再び春が訪れ、城下の所々で、今年も、桜が咲き始めて居た。

                     2


 風が鳴って居た。夜から聞こえた、その風神のうなりの様な風の音に、罪人は、春の訪れを知った。
 空気は冷たく、朝晩には、まだ冬の様な冷気が感じられる日が続いていたが、その風の音に、罪人は、土牢の外に春が来た事を知った。そして、その朝、土牢の外が白み始めると、罪
人は、土牢の前の黒い地面を見つめ、そこに、或る物が無いかと目を凝らした。それは、毎年、春の初めに、風がその土牢の前に運ぶ、春の知らせに他成らなかった。
 罪人は、それを見つけた。そして、春が訪れた事を確信した。外の世界で、又、一年の時が流れたのである。
 罪人が目を凝らして地面の上に探し、見つけた物は、白い桜の花びらであった。風で運ばれて来た幾枚かの白い花びらが、罪人が入れられた土牢の前の土の上で、風に舞って踊って居る。それを罪人は、今年も、その日の朝の光の中で見つけたのであった。土牢は、寺の墓地の外れに在り、近くに桜の木は無い。しかし、毎年、風が、遠くから、桜の花びらをこうして運んで来るのである。そして、風は、今年も、そうして、この土牢に桜を運んで来た。それは、土牢が谷間に在り、遠くで風が散らした花びらが、風の吹き溜まりであるその場所に運ばれて、いつまでもそこに留まり続けるからなのであった。風は、そうして、毎年、罪人の入れられた土牢の前に桜の花を置いて行くのである。
 その春の風の音を罪人は、毎年、牢の中で、耳を澄ませて待ち続けるのであった。そして、その風が、桜の花びらを土牢の前に運んで来るのを、牢の中で、待ち焦がれて居たのであった。


                      3


 その朝、住職は、いつもの様に、墓地の小道を一人、罪人の土牢へ と向かって居た。
 その道は、墓地の墓の間を抜ける道であったが、途中下り坂と成り、小さな梅林を抜けて、谷間に在る、この寺のより古い墓地に通ずる道であった。その道を住職は、もう七年間も通い続けて来たが、それは 住職の日課であった。
 その日の朝も、住職は、そうしてその道を土牢へと向かって居たが、 住職の頭上では、風が激しく鳴って居た。空は晴れ、青空が広がって居たが、その風は、嵐の様であった。地面の上では、木々の影が激しく動き、光と戯れながら、住職の行く道を先回りして居た。その木漏れ日の踊る道で、住職は、ふと、足を止めた。足元に、桜の白い花びらが、有ったのである。見ると、それは、一枚だけではなかった。住職が歩くその道の所々に、まだ数は少ないが、白い桜の花びらが誰かが撒いた様に落ちて居るのであった。そして、風が吹くと、それらの白い花びらが、木漏れ日の中で場所を変え、或いは変えずに土の上に留まるのを住職は見たのだった。
 それらの白い花びらを見て、住職は、何処かで桜が咲いた事を知った。この寺の鐘楼の横にも桜の古木が有るが、その桜は遅咲きで、今年も、まだ咲いては居なかった。ならば、この花びらは何処から来たのだろう?と住職は思った。この花びらは、何処か遠くから、風が運んで来たに違い無かった。恐らくは、桜の名所である近くの丘から運ばれて来た物と思われたが、もしかすると、もっと遠くの、城の堀の側の桜から運ばれて来たのかも知れなかった。それは、想像する他は無かったが、住職は、今年は、桜が咲くのが少し早い事に気が付いた。そして、木漏れ日の中で立ち止まったまま、土牢に居る罪人は、桜が 咲いた事に気が付いて居るだろうか、と思った。
 住職は、毎春、風が桜を運んで来る度に、そうして、それらの桜の 花びらが何処から来るのだろうと思うのであったが、それは、桜にし か分からぬ秘密なのであった。

                           

                     4


     土牢の前には、風が、もう随分桜の花びらを運ん
 で来てゐた。住職は、それらの、風が運んで来た桜を踏み
 ながら、木漏れ日が注ぐその土牢の前に、いつもの様に現
 れた。罪人は、住職が、そうして姿を見せる前から、遠く
 から近ずく足音に、住職の訪れに気ずいた。そして、住職
 が現れると、いつもの様に、土牢の中で正座し、訪れた住
 職に向かって深々と頭を下げたのだった。すると、住職も、
 いつもの様に静かに頭を下げた。住職は、そして、自分が
 立つ土牢の前で、足元を見回すと、牢の中の罪人に向かっ
 て、静かに声を掛けた。
 「桜が咲き始めましたな。」
 罪人は、牢の中でうなずいた。
 「今年は、いつもより早く咲き始めた様でござるな。」
  住職がそう言った時、強い風が吹いた。そして、住職
 の足元の桜が、その風に踊った。風は二人の頭上で鳴り、
 やがて、何処か遠くへ去って行った。
 その間、罪人は、静かに座ったままだった。そして、
 微かに微笑を浮かべた様だった。その姿を見て、住職は、
 ふと、六年前、この土牢の前で起きた出来事を思ひ出し
 たのだった。
  それは、この罪人が、無実の咎でこの土牢に入れられ
 て、一年目の春の事であった。その春も、桜は、いつも
 の年より早く咲いてゐた。その、いつもの年より早く桜
 が咲いた春の或る朝、領主の命令で、一年間罪人の世話
 をして来たこの住職は、その前夜、春の訪れを告げる風
 の音を一晩中聴きながら熟考した末に、ついに意を決し
 たのであった。即ち、その朝、住職は、いつもより早く
 土牢を訪れた。そして、食事を運ぶ小僧が本堂に戻った
 事を確かめると、土牢の格子戸を開け、牢の中の罪人に、
 「さ、お出になれい。」と言ったのであった。
 その日も、今日の様に、強い風が吹いていた。そして、
 土牢の地面に正座する罪人に向かって、住職はもう一度、
 「さあ、出られい。」と言ったのである。
 しかし、罪人は、外に出ようとしなかった。そして、
 無言で微笑み、住職に深く一礼を送って、罪人は、その
 ままそこで、まるで瞑想をする様に、目をつぶり続けた
 のであった。
  その時、牢の外では、桜が満開だった。そして、風が
 運んで来た桜の花びらが、いつまでも、住職の足元で踊
 り続けたのだった。

                            

                      5

  住職は、その朝の事を昨日の事の様に記憶してゐた。
 その朝、住職は、罪人を逃せば自分に科せられる咎(とが)
 をも省みず、土牢の木戸を開けたのであった。そして、住
 職は、領主の言いつけに背いて罪人を自由にする以上、
 自分は、その後、桜の花びらが積もる土牢の前で、自刃し、
 領主に詫びる積もりであった。しかし、罪人は、牢を出な
 かった。そして、今も、その牢の中に居るのである。一体
 何故、あの時、罪人は、外に出ようとしなかったのだろう
 か?
  罪人は、その時も、その後も、その理由を語ろうとはし
 なかった。その為、住職は、その理由をただ想像する他は
 無かったのであるが、住職は、はじめ、こう考えた。あの
 時、罪人が外に出ようとしなかったのは、罪人が、住職の
 身を案じたからであると。即ち、住職が、領主の命に背い
 て罪人を逃がせば、領主が住職に迫害を加える事は明らか
 である為、又、そうである以上、住職は死を覚悟して居る
 に違い無い事を罪人は知って居るからこそ、罪人は牢を出
 なかったのであると。そう住職は思ったのである。住職に
 は、それ以外の理由は考えられなかった。そして、そう信
 じて、罪人の心に打たれた。しかし、時が経つに連れ、住
 職は、あの時罪人が牢を出ようとしなかったのは、実は、
 他に理由が在ったのではないか?と思う様に成ったのであ
 った。罪人は、もちろん、住職の事をも案じたには違い無
 かった。しかし、住職は、それだけが罪人が牢を出なかっ
 た理由ではない事に気が付いたのである。即ち、罪人は、
 あの時、住職の身を案じて土牢を出なかったのではなく、
 既に自分の選択として、土牢の中で生き続ける事を選んで
 ゐたのではないか?つまり、罪人は、最早、土牢に入れら
 れた事をただ自分の不幸な、悲惨な運命として耐えてゐる
 のではなく、自らそれを選んでいるのではないか?と住職
 は、思ふ様に成ったのであった。それは、罪人の領主に対
 する戦いに違い無かった。
  罪人は、領主が与えた過酷な運命から逃げようとせず、
 それどころか、その過酷な運命を自ら選択し、土牢の中で
 生き続ける事で、領主と戦い続ける事を選んだ事に、住職
 は、気が付いたのである。住職は、そう思う様に成った。
 しかし、そう思ふ様に成っても、そして、あの朝を思い出
 させる桜の季節が来ても、罪人にそれを尋ねる様な事は、
 もちろん、しようとしなかった。その代はりに、住職は、
 毎朝、墓地の奥に在るこの土牢に通い続け、春が来れば、
 こうして罪人に、外の世界で桜が咲いた事を語り、それを
 喜び合ふばかりなのであった。

                       6

 不思議な事であったが、住職の心の中には、いつの頃からか、あの朝、罪人が牢を出なかった事を密かに喜ぶ様な、奇妙な感情が宿っていた。それは、あの時、自身の生命と引き換えにしてでも、罪人を逃がそうとした、この住職の心情を思い起こせば、はなはだ奇妙な感情であるに違い無かったが、その奇妙な感情は、時と共に、住職の心の中で、次第に大きく、そして、自身の自然な感情に成りつつあったのである。それは、まるで、住職が、あの朝、罪人が逃げない事を確かめる為に、土牢を開けたかの様な錯覚すら生む、まことに奇妙な感情であった。住職は、あの朝、牢が開けられたにも関わらず、そこを出ようとしなかった罪人に心を打たれ、罪人への畏敬を深めたのであったが、その結果、住職は、自分が、この罪人の身近に居る事を自らの誇りと思ふ様に成ったのである。それこそが、住職が、あの朝、罪人が牢を出ず、その後も自分の身近のに居る事を密かに喜ぶ気持ちの理由に他成らなかった。
 住職は、あの日以来、二度と再び、罪人に牢から出る事を勧める事も促そうとはしなかったが、それは、住職の罪人に対する深い畏敬の表れに他成らなかった。その代わりに、住職は、その事件の翌日から、毎日無言で土牢の前に現れ、そこに座し、土牢の前に在る自然石を鑿(のみ)で彫り始めたのである。数か月後、その石は、一体の地蔵と成った。その新たに彫られた地蔵を見て、罪人は、土牢の中から、無言で手を合はせた。それは、明らかに、住職が、領主に斬られた罪人の幼い息子の為に彫った地蔵であった。罪人は、それから毎日、朝夕にその地蔵を向き、牢の中で念仏を唱えたが、その地蔵は、明らかに、罪人に土牢を出る意思が無い事を知った住職が、最早、牢の外で子を供養する事の無い罪人が、せめて、牢の外の地蔵に手を合わせ、供養出来る様にと、彫ったものであった。その地蔵の顔を見て、罪人は、三途の川に居るのは、領主に斬られた子ではなく、その土牢で生き続けようとする自分自身である様な錯覚を抱いた。
 そして、あの時、自分が、住職が開けた土牢を出なかった事は、三途の河原で石を積む子供が、地蔵の慈悲を拒んだ様な行為であったかも知れないとの思いを、罪人は、その後もしばしば抱く事が有ったのである。その様な思ひを抱きながら、罪人は、土牢の中で、幾度も春を迎え、送った。そして、今年も、風は、土牢の前に桜を運んで来たのであった。

                       7

 その朝も、住職は、いつもの様に地蔵に向かい、読経をした。そして、読経を終えると、住職は、数珠を手にしたまま、静かに後ろを振り返った。住職の後ろでは、罪人が、いつもの様に、土牢の中で正座し、住職が読経を終えてからもなお、目を閉じたまま、その地蔵に向かって両手を合わせていた。罪人のその姿を見て、住職は一瞬、目を閉じた。そして、何事かを思うと、再び振り返って、その小さな地蔵を見つめた。地蔵の前には、風が運んだ桜の花びらが数枚散らばり、まるで誰かが捧げた様に、その土の上を飾ってゐる。その土の上の花びらを見つめながら、住職は、春の再来を知り、心の中で喜んだ。住職は、そして、かつて自分が罪人を逃がそうとした春の朝を思い出したが、その事は、もちろん、口にしなかった。住職は、その代わり、その春、自分が掘ったその地蔵に向かって、もう一度心の中で合掌し、あの世に居る罪人の子にその桜をお届け下さいと願じたのだった。すると、風が吹いた。土牢が掘られたその低い崖の上には木が鬱蒼と生い茂っている。その木々は、多くが、冬も緑をたたえていたが、その風に、崖の上の木々は、揺れて、海鳴りの様な音に包まれたのだった。その音に住職は、驚かされた。風は朝から吹いていたが、それが少しやんだと思われた矢先、その風が吹いたからである。そして、その風の音に、住職は、思わず、頭上を見上げた。見ると、住職の頭上には、風に揺れる木々の枝とその枝の網の上に広がる青空が有った。そして、その晴れた青空を、鷺(さぎ)の様な白い雲切れが二つ、天で戯れる様に変えながら、音も無く、南から北に、渡っていくのを、住職は見たのである。その雲を見ながら、住職は、天は何と高いのだろう、と思った。そして、その天の底に立ち尽くしながら、目を雲から地面に落とした時、住職は、先程自分があの世に居る罪人の子供にお届けあれと願じた地蔵の下の花びらが、その風に運び去られて、もう地蔵の足元から消えている事に、気が付いたのだった。

                       8

 それから数日は、穏やかな日が続いた。空気は冷たかったが、それはもう冬の冷気ではなかった。風は吹いたが、最初の嵐の様な風は、もうやって来なかった。代わりに、穏やかな風が、罪人の土牢を訪れ、頭上の梢で何かをささやき、訪れた新しい春を祝福していた。梢の上には、青空が有り、白い綿雲が、南から北へ、その空を絶えず流れて居たが、空は曇らず、晴れた日が、その数日は、続いたのであった。風は、桜を運んで来た。そして、その桜を土牢の前に置くと、再び何処かへ
と去って行った。風は、毎日そうして桜の花びらを罪人の前に運んで来たが、それは、まるで、風が、何処か遠い場所から桜の花びらを運んで来て、罪人が居る土牢の前に置き、そして、すぐにその遠い場所に戻って、また花びらを運んで来るかの様であった。そして、その運ばれた花びらは、時々、思い出した様にその風によって黒い土の上を動き回り、新しく運ばれた花びらと混じり合ひ、次第に、数を増やして行くのであった。
時には、そこで、小さなつむじ風が起こる事も有った。花びらは、そのつむじ風の一部と成って、罪人の前で回り、やがて、止まった。それは、まるで、罪人の前で、姿の見えない子供が遊び、はしゃいでいる様な光景であった。そして、その小さなつむじ風は、時には、罪人の居る牢の中にも、気まぐれに入
り込み、牢の土の上に花びらを置く事も有るのだった。罪人は、毎朝、住職が牢を去ると、一人と成った。そして、いつもは、牢の中で書物に向かったり、写経をしたりして時を過ごすのだったが、毎春、桜が咲き、自分の居る土牢の前が桜の花で覆われるこの数日は、そうした事をせず、ただじっと、目の前の土の上の花びらを見つめて時を過ごす事が多く成るのだった。そして、時々吹く風の音に耳を澄まし、その風と共に、地面の上をうごめく木の影を見つめて、春の日を過ごすのであった。毎春、土牢の前が桜の花びらで埋まる時、罪人は、幸福だったのである。

 

                        9

 罪人の前で、花は、踊った。牢の前の土の上で、白い桜の花たちは、くるくると回り、罪人にそこにおいでと誘い続けた。木漏れ日が、その遊びに加わり、風と光と桜の花びらが、三人の子供の様に朝から夕方まで、目の前で遊ぶのを、罪人は、毎日、飽きずにながめ続けた。時折、遠くの木々が、海の様に音を立てると、罪人は、その音に耳を澄まし、目の前で
回るその花びらたちがやって来た、遠い場所の光景を心の中に思い描いた。
 土牢に入れられてから、罪人は、思い出をいつくしむ様に成った。この寺の周囲は、罪人が生まれ育った土地である。そこは、城の近くであり、近くには、罪人が、幼少の頃、兄弟と遊んだ寺の境内も有れば、若侍と成り、弓を射た場所も有った。そして、領主の家臣として、罪人が住み、子の成長を見守った家も、全てが、この土牢から遠からぬ場所に有ったのである。
 この城下に生まれ、この城下で生きて来た罪人にとって、この寺の周辺は、その様な思い出に満ちた土地であった。しかし、この土牢に入るまで、罪人は、そうした、この辺りの光景をさほどいとおしい物とは思って居なかったのである。それが、この土牢に入れられてから、罪人は、かつては余りに身近であった為、何とも思わなかった、この辺りの風景をいとおしく思い、心の中で、思ひ描く様に成ったのであった。
 春が訪れ、桜の花が、風に乗って運ばれて来ると、罪人は、その花たちが咲いて居た桜の木々を思い描き、この辺りの春の光景を想像した。そして、それらの場所で出会った、甘美な思ひ出を心に浮かべて、風の音に耳を傾け続けるのであった。

                            


                       10

 そんな、罪人が牢の中で思い浮かべる風景の一つに、城の近くの丘が有った。
 それは、城を出て、少しばかり行った場所に在るゆるい丘で、見晴らしが良く、そして、丘全体が、桜の古木に覆われた、風光明媚の場所であった。
 春に成ると、その丘は、満開の桜に覆われる。そして、その地面は、散った桜の花で一杯に成る。その上、その丘からは、城外のあちらこちらに咲く桜を遠望出来る為、そこは、この辺りの花見の名所に他成らなかった。
 罪人は、子供の頃、その丘を駆けて遊んだ。そして、親と成ってからは、春に成ると、妻と子を、そして今は亡い母を連れて、その丘に出掛けたのであったが、その丘は、領主が、毎春、家臣と側室を連れて、盛大な花見を催す場所でもあった。即ち、領主は、毎春、桜が満開と成ると、その丘に家臣と側室を多数連れて出掛け、その丘の一角で花見を行なう事を常としたが、領主の家臣であった罪人は、七年前の春、まさに領主が催すその花見に毎年の如く加はった際、まるで騙し討ちの様に、突然、桜の下で捕えられ、この土牢に入れられたのであった。
 その為、罪人は、牢の中で、その丘の光景を思い出す時、自分の心の中に、その丘に咲いた満開の桜の光景とともに、特別な感情が沸き起こる事をどうする事も出来無かった。そして、自分の居る土牢の前に風が運んで来る白い桜の花びらを見る時、罪人は、その花の多くが、土牢から遠くない、その丘から運ばれて来たに違い無い事を思い、その春の丘の光景を想像せずには居ないのであった。


                      11

 領主は、その年も、花見に出掛けた。いつもの春と同様、領主は、家臣と側室を連れ、城からほど遠くないその丘で花見を催し、新しい春の訪れを楽しもうとしてゐた。桜は、満開であった。領主は、その満開の桜に包まれた丘の一隅の、最も景色の良い場所に、花見の場を設けさせ、茶を立て、酒を楽しみ、そして、猿楽に興じる事を毎春の常として居た。そして、今年も、領主は、そうして丘の一隅で花見を催し、家臣や側室と共に、春の一日を過ごそうとしたのであった。その日は、風は有ったものの、空は晴れ、数日前までの冷気も失せ、まさに、
花見日和(びより)の日と成った。領主は、例年同様、多くの家臣を連れ、客人らを招き、桜の下で、自ら茶を振る舞った。そして、その満開の桜の下で、自ら猿楽を舞って、満悦であった。ただ、寄る年の為か、酒が、早く回る様に成った事に領主は驚き、心の中で苦笑せずには居られなかった。
 花見がたけなわの時、領主は、静かに座を立った。花見の酒が回り、領主は、ふと、一人に成りたく成ったのである。領主は、伴の者に「構ふな」と言い、客達の円座を離れて、満開の桜の下を一人歩こうとした。が、それでも伴の者が来るのでそれを叱り、ようやく、領主は、少しだけ、独りで桜の下を歩く事が出来たのであった。

                      12

 領主は、一同の座を離れ、独り、桜の下を歩いた。そして、一同が花見を続ける場所を少し離れたその丘のゆるい斜面に出ると、そこに在る桜の古木の一つの下で、その足を止めた。そこは、見晴らしの良い場所で、そこで立ち止まった領主の目の前には、丘のふもとの野の光景が、南に向かって広がってゐた。
 それは、まだ冬枯れのままの萱原(かやはら)と、水の引かれていない冬のままの田が広がる早春の野の光景で、その所々に、竹薮(たけやぶ)や林が在り、そして、茅葺(かやぶき)の家々が散在して居た。そして、その山水画の様な光景の所々に、白い花を満開に咲かせた桜の木々が咲いているのが、領主が立ったその丘の斜面から見渡されるのであった。
 領主は、以前にも、この場所に立って、この春の野の光景を見やった事が有った。領主は、その同じ光景を見ながら、自分が、毎年、この丘の上で花見を催して来た事を改めて想起したが、その時、領主の心に生じた感情は、感慨と言ふよりは、むしろ、寂寥に近い、空虚な感情であった。「又、一年が過ぎたのだ」と領主は思った。そして、この丘で花見を催す毎に、その事を思う自分を心の中で自嘲しながら、桜が所々に咲いた、その早春の野を見つめ続けた。耳を澄ますと、その明るい野のあちらこちらで、鳥が鳴いているのが、領主が立っている丘の斜面からも耳にする事が出来た。それは、冬の間は聴く事の出来無かった、歌う様な、明るい鳴き声であったが、何か不安げな鳴き声の様でもあった。その鳥の声を聴きながら、領主は、何処かで人の声が聴こえないかと耳を澄ました。だが、人声は聴かれなかった。そして、その風景の何処にも、その時、人の姿は見られないのであった。全ては、明るく、光に包まれていた。だが、その風景は人気(ひとけ)が無く、領主は、寂寥を感じずに居られなかった。領主は、一同の居る場所に戻ろう、と思った。花見は、今がたけなわであった。もう一度、一同の前で猿楽を舞い、それから、更に杯を重ねようと考えて、領主は、野を背にし、花見の座へと戻り始めた。ところが、その時、領主の心に、七年前、この丘で催した花見の席で、自分が捕えさせたあの罪人の事が、不意に浮かんだのであった。


                     13

 領主は、罪人の事を忘れていた。が、今、突然、七年前、自分が、寺の土牢に入れた、あの罪人の事を思い出し、その場で、足を止めたのであった。
 領主は、あの罪人が死んだとは聞かされていなかった。そして、去年の春、あの罪人が生きている事を聞き、心の中で嘲笑した事も有った。だが、この一年の間は、あの罪人の事を思い出す事は、一度も無かったのである。それが今、領主の心に、あの罪人の事がよみ返り、一体、今、あ奴はどうして居るだろう?と言ふ思いが、まるで雲の様に、領主の心の中に、湧き上がったのであった。
 領主は、自分の心に驚いた。そして、その場で後ろを振り返り、丘の下に広がる春の野を見渡した。それは、先ほどと全く変わらぬ光景であった。が、領主は、その同じ光景に、先ほどとは全く違う何かを感じて居たのである。

 次の瞬間、領主は、今から馬に乗り、あの寺で、土牢に入れられたあの男に会ふ事を心に決めていた。

                           

                     14

 領主は、白馬に跨り、丘を下った。領主が、花見の座を離れると言ったので、会席した一同は、その言葉を不審に思った。が、領主は、少し馬に乗りたく成ったのだと言い、一同に花見を続ける様にと言った。そして、すぐに戻るからと言い残すと、数名の武者を引き連れて、あの罪人が居る寺へと向かったのであった。領主が乗った白馬は、満開の桜の下を駆け、ゆるい斜面を下って、あの寺へと向かった。領主が先頭を走り、供の者たちは、それを追ったが、誰も、領主が、急に寺に向かおうとする理由は知らなかった。供の武者たちは、そうして、理由も知らされぬまま、ただ、領主の白馬を追って、馬で、共にあの寺へと向かったのであった。寺に向かう坂道には、木漏れ日が踊り、桜の花びらが、そこかしこに散って居た。領主とその供の者たちは、その坂を速足で駆け、寺へと向かったが、馬の名手である領主は、供の者たちより先にその坂を下り、後に続く家臣たちよりもずっと先を、一人駆け続けたのであった。やがて、領主は、寺の前に到着した。領主は、そこで馬を降り、久しぶりに訪れたその寺の山門の前に立った。領主は、辺りを見回したが、その風景は、領主が、最後にここに来た時と何も変わっていなかった。辺りの木々も、山門も、そして、その山門に在る古い仁王たちの姿も、時の流れが止まって居たかの様に、そのままであった。領主は、そこで、その山門の仁王たちを見上げ、その変はらぬ姿を無言で見つめ続けた。間も無く、供の武者達の馬が、到着した。供の者たちは、領主が余りに速く馬を駆けたので、不覚にも、遅れを取ったのであった。だが、領主は、後から到着した供の者たちには構おうとしなかった。その代わり、先に寺の前に着いた領主は、山門の前に立ち、無言のまま、そうして、そこで、その古い仁王たちを見つめ続けて居るのだった。そこで、到着した供の者の一人が、山門から寺の境内に入り、大きな声で、寺に領主の訪問を告げた。その武者の声が春の寺に響き、寺の者が姿を見せた時、領主は、ようやく、その古い仁王たちから目を離し、境内に足を向けたのであった。

                           


                      15

 領主が、突然寺を訪れたと言う知らせに、住職は、驚かされた。住職は、寺の者たちに、領主を迎える様命じたが、その時、住職は、胸騒ぎを覚えずには居られなかった。
しかし、住職が、境内で領主を伏して迎えた時、領主は上機嫌で、住職と寺の者達に向かって「構うな」と言い、住職に不意の来訪を詫びたのだった。そして、領主は、その境内で、鐘楼の横に咲く、桜の古木を見上げ、住職に、その満開の桜の見事さについて語り掛けたのであった。住職は、寺の者達と共に、領主の足元に伏しながら、領主の言葉を聞いた。そして、領主の言葉に謝辞を述べたが、そうして、境内の地面に伏して領主の言葉を聞きながら、住職は、領主が、ただ、この鐘楼の横の桜を見る為にここに来たのだとは、思えなかった。やがて、その桜の話をする内に、領主は、ふと黙った。そして、住職に「面を上げい。」と言うと、機嫌良さそうに、「ところでの。」と言ったのだった。住職が、境内に伏したまま顔を上げ、「は。」と答えると、領主は、住職のその顔を見つめ、静かに問い掛けた。「あの者はどうしておる?」領主は、住職の顔をじっと見つめて居た。

桜(『第一集・第一話』)


                       16

 住職は、領主を土牢に導く事と成った。領主は、供の者たちに、境内で待つ様に言ひつけ、住職に従って、土牢が有る寺の墓地へと向かった。
 住職は、領主の心を図りかねた。そして、これから、一体何が起こるのか、強い不安に駆られたが、住職には、言われるがままに、領主を先導して、土牢に向かう他は無いのであった。
 そうして、土牢への道を歩く間、領主は、何も言葉を口にしなかった。領主のその沈黙は、住職をますます不安にした。一体、領主は何故、今、突然、寺を訪れ、あの罪人に会いたいと言い出したのか?住職は、領主の沈黙に、その問いへの答えが込められて居るのではないか?と思わないでは居られなかった。

 その住職と領主が、土牢に近ずいた時、土牢の中の罪人は、その近ずく足音に気が付き、正座した。罪人は、何故、この時間に住職が来るのか、と思った。そして、耳を澄まし、その近ずく足音が、住職一人の足音ではない事に気付いた時、罪人は、牢の中で、その足音の主を想像せずには居られなかった。


                      17

 領主は、墓地の奥に導かれた。そして、そこで、自分の前に現れた低い崖とその崖に掘られた古い土牢を目にした。領主は、そこが、あの罪人が入れられた土牢である事を記憶して居た。
 すると、そこまで領主を先導して来た住職が、不意に立ち止まり、領主に道を開けた。住職は、そして、無言のまま、道の脇に立ち、領主に深々と頭を下げたのであった。
 領主は、うなずいた。そして、数歩前に出ると、領主は、一旦、自分も、そこで足を止めた。そして、その場所から、領主は、その崖に掘られた土牢をじっと見つめたのであった。領主は、まだ、土牢の前まで進もうとはしなかったのである。

    領主の足元は、桜の花びらで埋もれていた。

                     18

 領主は、その場所から、土牢の中を凝視した。そして、その土牢の中に、あの男が正座しているのを確かめると、その場で、その男の表情を見極めようとした。
 だが、領主が立って居る場所は、土牢からはまだ距離が有ったので、その薄暗い土牢の中で正座するその男の表情を読み取る事までは出来無かった。
 領主は、距離は有るものの、自分の視線が、牢の中に居るその男と合うのを感じた。そして、その視線の故に、そこから前に進もうとせず、しばし、その場に足を止めたのであった。が、やがて、その場の空気と罪人の視線に慣れると、領主は、ゆっくりと前に進み、土牢の前へと近ずいたのであった。
 住職は、そうして領主が土牢に近ずくのを、領主の横で頭を下げたまま、領主の足音の移動によって感知した。そして、今これから、牢の前で、何が起こるのかを予測出来ぬまま、ただひたすら、心の中で、阿弥陀如来の名を念じ続けたのであった。

                     19

 二人は、対面した。が、直に視線を合わせては居なかった。土牢の前に立った領主が見つめて居たのは、土牢の中に正座する罪人の姿の全体である。領主は、そうして、罪人と直接に目は合はせずに、それが、あの男である事を確かめようとしたのであった。領主は、一瞬、その正座する罪人の姿を不動明王と見間違えた。が、それは、不動明王ではなかった。それは、間違い無く、七年前、自分がこの牢に入れた、あの武士であった。武士は、髭を伸ばし、そして、明らかに痩せて居た。だが、武士は、思ひの他、その容姿を変えては居ないのであった。
 領主は、先ず、土牢の中の武士が、そうして、容姿を大きく変えてゐない事に驚かされたのだった。そして、領主は、罪人が、突然の自分の出現に驚いた様子も見せず、牢の中で、静かに正座し続ける事に当惑した。だが、領主は、領主である自分の面目に賭けて、その当惑を顔に出す事は出来無いのであった。不意に出会った獣と対峙する様に、領主は、視線をそらさず、そして表情を変えないまま、そうして、土牢の前に、立ち続けたのだった。


                      20

 風が、吹いた。その風に、領主の足元の花びらが、土の上を踊った。領主は、目を落とし、自分の足元で踊る、それらの花びらを見つめた。領主は、その時、自分の足元に、これほど多くの桜の花びらが有った事に気付き、驚いたのだった。
 だが、その風は、すぐにやんだ。たった今、領主の足元で踊った花びらたちは、動きを止め、牢の前の地面は、しんと静まり返った。領主は、その時、自分が、ここに何をしに来たのか、分からなく成って居た。


                       21

 再び、風が吹いた。が、今度の風は、静かな、優しい風であった。その穏やかな風の中で、花びらは、今度は、殆ど動こうとしなかった。

                          


                       22

 領主は、一瞬、その土牢の前に流れる時間が、止まった様な錯覚を覚えた。


                       23

 静けさの中で、領主は、幸福な感情に心を満たされた。それは、領主がここに来た時、全く予想も期待もして居なかった感情であった。


                        24

 領主は、ふと、足元を見た。見ると、花びらに埋もれた領主の足元のすぐ横に、小さな地蔵が有ったのである。
 領主は、その地蔵の愛らしさに打たれた。そして、思はず、その地蔵に向かひ、目を閉じて、両手を合わせた。すると、再び風が吹き、その地蔵の前の桜の花びらを、何処かへと運び去ったのであった。

                      25

 領主は、目を開けた。そして、目を開けたまま、なお、その地蔵に向かって合掌
を続けた。その時、領主は、不意に、背後に居る罪人の存在を意識したのであった。

                           

                       26

 領主は、我に返った。風の中で、領主は、今日、自分がここに来た理由を思い出した。領主は、心を決め、地蔵に向かって合わせてゐた自分の手を下ろした。そして、ゆっくりと後ろを向き、自分の背後に居る、土牢の罪人を振り返ったのであった。                                                    


                      27

 領主は、先ほどと同様、牢に座る罪人と向かい合った。罪人は、領主が地蔵に手を合わせてゐる間も、領主の背中をじっと見つめて居た様だった。風が、再び、領主の足元の桜を舞わせたが、領主は、今度は、それらの花びらに気を取られなかった。
 領主は、不動のまま、土牢の中に座る罪人を見つめ、罪人も、正座したまま、牢の前の領主を見つめ続けた。ただし、二人は、お互いに、相手の目を見ようとはしなかった。二人は、お互いに、相手の全身を見つめ、共に、そこで、不動の姿勢を取り続けたのだった。二人は、そうして、そこで、永久に、不動の姿勢を取り続けるかの様に思はれた。住職は、二人のその様子を、まるで、決闘を見守る様に、見守り続けた。


                      28

 すると、風が止んだ。そして、静寂が辺りを包んだ。その静寂に、領主は、不意に、これ以上ここに居る事が、無益である事に気が付いたのだった。
 領主は、自分が、これ以上ここに留まっても、この罪人は、泣く事も、許しを請う事もしない事を確信した。そして、自分が、ここで、これ以上罪人と対峙し続ける事は、逆に、この罪人に、勝利感さえ与えかねない事に気が付いたのだった。それは、領主が、ここに来た時、全く予想して居なかった事態であった。

                       29

 領主は、もう一度、頭上を見上げた。そして、木の枝の間に広がる春の空に、夕方の気配が漂い始めてゐる事を悟った。それから、領主は、視線をゆっくり、その空から降ろし、土牢の中の罪人に、もう一度、その視線を投げ掛けた。だが、領主が予想した通り、領主が空を見上げて居た間に、罪人の様子が変わって居る事は無かった。領主は、丘の上で続く花見の事を思ひ出し、帰らねば、と、思った。
 領主は、罪人に背を向けた。そして、無言で土牢と反対の方向に、つまり、寺の本堂に戻る道の方を向き、そちらへ、足を踏み出した。住職は、それを見て、一気に、緊張から解放された。これで終わった、と、住職は、思ったのである。
 だが、次の瞬間、領主は、その場で、不意に、その足を止めたのであった。

                      30

 領主は、土牢の周りに、桜の木が見当たらない事に気が付いたのだった。そして、それにも関わらず、土牢の前が、桜の花びらで、一面蔽(おお)われてゐる事に、領主は、気付き、不思議に思ったのだった。
 領主は、もう一度、後ろを振り返った。罪人は、矢張り、そこに居た。罪人は、その一面の桜を前に、土牢の中で正座して、じっと前を見詰め続けたままだった。それを見て、領主は、すぐに前を向き、再び、元の道を歩き始めた。そして、領主は、もう二度と後ろの罪人を振り返ろうとはしなかった。だが、本堂に向かうその道を歩く間、領主は、自分の心の中に、言い知れぬ屈辱感と、今日、ここへやって来た事への後悔の念が沸き起こるのを、どうする事も出来無かったのである。

                      31

 土牢から戻った領主は、寺の本堂へと寄った。そこで、領主は、縁側に座り、茶
を所望した。間も無く、茶が運ばれると、領主は、その茶の器(うつわ)を両手で
持ち、ゆっくりと、茶を飲み干した。そして、その茶碗を手にしながら、領主は、
しばらく、無言で、何事かを考え続けたのだった。
住職は、その領主の横で、縁側に正座し、領主が何事かを言うのを待った。だが、
領主は、無言であった。その為、住職は、再び不安に襲われた。日は傾き、日没が近ずいてゐたが、領主は、縁側に腰を掛けたまま、茶碗を抱き、寺を去ろうとしないのだった。             
                           

                      32

 領主には、罪人の心が読めなかった。一体、何故、あの罪人は、自分を前にして、あの様に落ち着いて居られたのだろうか?そして、何故、あの様に満ち足りた表情を浮かべて居られたのだろうか?領主には、それが驚きであった。今日、ここに来て、領主は、あの罪人の様子が、領主が思い描いゐた様子と余りに違う事に驚き、打ちのめされる思いをしたのであった。そして、領主は、そんな自分の驚きを、あの罪人は、自分の表情から読み取ったのではないか、と考え、それを何より恐れたのであった。それでは、自分は、一体、何の為にここにやって来たと言ふのか!と、領主は、思はずには居られなかった。

                      33

 領主は、その屈辱を心に秘めながら、手の中の茶碗を見つめ続けた。が、そうする内に、領主は、もう、行かねば成らない事を悟った。領主は、茶碗を縁側に置き、横で正座し続ける住職に、一礼をした。そして、「茶を馳走に成った。」と言うと、履物を履いて、ゆっくり、自分の馬の方へと向かったのであった。
 住職は、そこで、もう一度、深々と手をつき、来訪への礼を述べた。それから、住職は、座を立ち、馬に向かう領主を後を追った。そして、領主が、馬に近ずき、乗ろうとした時である。領主は、不意に、体を止め、馬に乗るのをやめて、住職を振り返ったのであった。
 住職は、何事かと思った。すると、領主は、住職の目を見ながら、ゆっくりと、こう尋ねたのだった。
 「あの者は、いつも、ああしておるのか?」
 突然の問い掛けに、住職は当惑した。が、住職は、その場で領主に頭を下げながら、すかさず、「はい。」と、答えたのであった。
 領主は、馬のたずなを手に持ちながら、その場で無言で考え込んだ。それから、再び、住職に尋ねた。
 「いつもか?」
 「はい。」
 住職には、領主が、何を聞こうとしてゐるのかが、解らなかった。が、領主は、そんな住職の様子には構わず、更にこう尋ねたのだった。
 「牢で何をしておる?」
 住職は、胸に動悸を感じながら、答えた。
 「写経などをしております。」
 領主は、何も答えなかった。そして、短い間考え込むと、こう尋ねた。
 「それが、あの者の楽しみか?」
 領主には、何者にであれ、写経を禁じる事などは、思いも寄らなかった。迷信深い領主には、その様な事をすれば、自分と自分の身の内に仏罰が下ると信じて居たからである。だが、住職は、領主のこの問いに、領主が、罪人から写経を禁じようとしてるのではないか?と思ったのであった。



桜(『第一集・第一話』)


                       34


 領主は、住職を見つめた。その視線に、住職は、思わず答えた。
「桜で御座居ましょう。」
「桜じゃと?」
 領主は、目を丸くした。住職は、ただ、領主が、罪人から牢の中での写経を禁じる事を恐れたのである。その為に、住職は、罪人が、写経などには関心が無いかの様に思はせようとしたのだった。
「牢の周りに桜など無いではないか?」と、領主は、問い返した。領主のその問いに、住職は、頭を低くしながら、答えた。
「御座居ませぬ。しかし、風が、遠くから、花を運んで来るので御座居ます。」
領主は、狐につままれた様な顔をした。が、領主は、住職が言ふ通り、先程自分が訪れたあの土牢の前が、白い桜の花びらで埋もれてゐた光景を思ひ出し、はっとしたのであった。
                          

                        35

 住職は、言葉を続けた。
「毎春、桜の頃と成りますと、桜が、あの牢の前に、吹かれて来るので御座居ます。それを、あの者は、何よりの楽しみにしてゐるので御座居ます。」
領主は、言葉を発しなかった。
「恐らくは、殿がお花見をなさりますあの丘の桜が、風に吹かれて、来るので御座りましょう。あの墓場の奥の、土牢の前辺りに、花が溜まるので御座居ます。」
住職は、領主の心が読めぬまま、その言葉を続けた。
「楽しみと言えば、それ位(くらい)かと。他には、何も無いかと、拙僧には思はれまする。」
 そう言ふと、住職は、言葉を切って、領主の表情を窺(うかが)った。

                       36

 領主は、無言だった。無言のまま、領主は、その場で動こうとせず、何事かを考え込み始めてゐた。
 その反応が、住職には意外であった。住職は、領主が、住職の答えにこの様な反応を示し、この場を去ろうとしなく成った事に、当惑せずに居られなかった。住職は、領主に、あの罪人には、楽しみなど何も無い事を言おうとしただけであった。その為に、住職は、あの罪人には、楽しみと言へば、春に、風が運んで来る桜の花びらぐらいしか無いと言おうとしたに過ぎなかった。しかし、今、住職の目の前で、領主が、住職のその言葉を聞いて、考え込んでゐる事に、住職は驚き、一体、自分の言葉が、領主の心の中に何を生じたのかと、思はずに居られなく成ったのであった。
 すると、遠くで、鳥が鳴いた。その声に、領主は、ゆっくりと、我に帰った。そして、ようやく、元の表情に戻ると、夕方の気配が漂ひ始めた、自分の頭上の空を見上げて、「そうか。」と、小さくつぶやいたのであった。
    


                       37

 領主が見上げた空の一隅には、夕暮れの雲の切れ端が浮かんでゐた。
 その小さな雲は、頂度、桜の花びらの様な色に染まり、桜の花びらの様な形をして、その青い空に漂ってゐるのだった。  領主は、その夕焼けに染まった春の雲を、水に浮かぶ花びらの様に見つめながら、ようやく、自分の白馬に跨(またが)った。そして、はやる馬を制しながら、自分を見送ろうとする住職を見下ろして、もう一度、「馳走に成った。」と、茶の礼を言った。
 住職は、その場で、深々と頭を下げた。すると、早駈けの名手である領主は、「どう」と言って、馬に合図を与え、そこを駆け出した。続いて、従者達の馬が、次々に、領主の白馬の後を追って、花見の続く丘へと向かった。
 彼らの姿は、すぐに見えなく成った。後に残されたのは、そこで彼らを見送った、住職と寺の者たち、それに、寺の山門に立つ、仁王たちであった。


                       38

 そうして、日は暮れた。領主が戻った丘では、かがり火が焚かれ、夜桜の下、猿楽と酒の宴(うたげ)が、夜遅くまで、続けられたのだった。

                       39

 それから数日、城下では、穏やかな日々が続いた。風は、吹き続けたものの、嵐の様な風が吹く日は無く、朝の冷気も、ゆるむばかりであった。
 寺では、いつもの様に、住職が、朝早く土牢を訪れ、罪人と語り合ったが、その際、二人の間で、数日前の領主の訪問が語られる事は、全く無く、そんな来訪は、無かったかの様であった。
 罪人は、住職が本堂に戻ると、いつもの様に、牢の中で写経をし、或いは、書を読んで時を過ごしたが、罪人のそうした様子には、数日前の領主の来訪の後も、何も、変はった処は、無かったのである。

                       40

 そうして、今年の桜は、終わろうとしてゐた。罪人は、牢の前の花びらが減るのを見て、牢の外の桜が終わった事を知った。そして、いつもの年の様に、牢の前に残る花びらを惜しみながら、翌年の桜を想ったのであった。ところが、全てが、いつもの春と変はりが無い、と思はれたその時、異変は、起きたのであった。

                            

                      41

 静かな朝であった。風は無く、空気が、暖かさを帯びたその日の朝、罪人は、いつもの様に、土牢の中で正座し、写経を行なってゐた。
 と、罪人は、筆を持ったその手を止めた。遠くで、何か、音が聞こえたのである。罪人は、耳を澄まし、その音が何であるかを知ろうとした。風は吹いてゐないので、
 罪人は、その音を良く聞く事が出来た。だが、それが何の音なのか、土牢の中の罪人には、直ちに判断する事は出来無かった。良く聞くと、その音に混じって、人の声や馬のいななきも聞こえて来る。・・・「狩りだろうか?」と、罪人は思った。いや、狩りではない、と罪人は思った。狩りの様だが、狩りでは聞こえない、高い音が、遠くから、規則正しい響きと成って、朝の空気の中を伝わって来るのであった。「まさか戦さでは?」とも思ったものの、身を持って合戦を知る罪人の耳に、それが、合戦の音でない事は、すぐに知れた。「一体、あれは、何の音なのだ?」と思ひながら、罪人は、牢の前の土を見つめた。

                           


                       42

 牢の前から、桜の花びらは、もう殆ど姿を消してゐた。土牢の前には、わずかに、数枚の花びらが残ってゐるばかりであった。そのわずかに残された桜の花びらを見ながら、罪人は、牢の中で、遠くから聞こえる、その奇妙な物音に耳を澄ました。そして、間も無く、罪人は、その音が、何の音であるかを悟った。それは、遠くで、木を切る音だったのである。
                          


                      43

 どうやらそれは、あの丘から聞こえて来る様だった。領主が、毎年、花見の宴を開くあの丘から、そして、かつて、罪人が、領主に花見の席で捕えられたあの丘から、その音は、聞こえて来るのだった。その音を聞きながら、罪人は、今、あの丘で起きつつある事を想像した。

                      44

 音は、次第に、はっきりと聞こえる様に成った。木を斧で切ろうとする音が、そして、木の倒れる音が、罪人の澄まされた耳に聞こえ、それに混じって人間の声が、そして、馬のいななきが、遠くからではあったが、はっきりと、聞こえる様に成ったのであった。
 そして、やがて、それに驚くべき音が加はった。それは、火の音であった。火が燃える音が、幽かではあったが、それらの音に混じり、確かに聴かれたのであった。
 それが空耳(そらみみ)でない証拠に、幽かな煙が、そして、その煙に伴ふ桜の木が燃える臭いが、罪人の居る土牢にまで、漂い始めたのであった。

                       45

 罪人は、目を閉じた。そして、目を閉じたまま、牢の中で、何事かを黙考した。
 すると、罪人のその耳に、丘からの音に混じって、墓地の道を、土牢へと近ずく何者かの足音が、聞こえた。
 罪人には、それが、住職の足音である事が分かった。だが、それは、罪人が毎朝耳にする足音とは違う、速足の足音であった。そして、その足音に、不安の音を聞き分けた罪人は、そこで、静かに目を開け、土牢の外を見つめた。すると、罪人の耳が聞き分けた通り、そこに、住職が、速足で、姿を現したのであった。
 住職は、牢の前で立ち止まると、息を切らせながら、罪人の顔を見つめた。そして、その息を鎮めると、罪人に、丘から聞こえる音が何であるかを告げたのであった。

                       46

 住職は、今朝、丘からあの音がするのを聞いて、寺の者に、様子を見に行かせたのであった。その者が、見た事によると、丘は、領主の家来たちとその馬で一杯であったと言ふ。そして、領主の家来たちは、そこで桜の木を切り、切り倒した桜の木々に火を放ち、燃やして居ると言うのであった。
 住職は、その者が語った光景に、戦慄して居た。そして、住職は、あの丘で、その様な事を始めた領主の意図を図りかねて居た。だが、罪人は、住職のその言葉を聴きながら、領主が、何故あの丘の桜を切らせ、火を放たせたかを、良く理解出来たのであった。


                      47

 罪人は、数日前、領主がここを訪れた時の事を思い出してゐた。そして、今、あの丘で起きてゐる事は、あの時、ここで起きた出来事の結果である事を、土牢の中に居ながら、理解出来たのであった。--丘に行き、そこで起きてゐる事を目で見ずとも、罪人には、それが解ったのである。
 住職は、そんな罪人の様子に驚きを抱いた。牢の中の罪人が、丘から聞こえる、木を切る音や、ここまで漂う微かな煙の中で、いつもの朝と変わらぬ、全く冷静な表情をしてゐたからである。罪人は、まるで、何事も起きてゐないかの様に、いつもの朝と同じ、静かな表情で、牢の中に座ってゐたのである。                            

                      48

 罪人は、合掌した。そして、牢の前の地蔵に向かって、何事かを祈った。その地蔵の足元には、まだ、桜の花びらが、まだ数枚残されてゐた。

          49

こうして、この年の春は、終はった。

                       50

 一年の時が流れた。土牢に再び春が訪れたが、その春は、それまでの春とは違ふ春の様に思はれた。

桜(『第一集・第一話』)


                      51

 それは、この土牢の前に、桜の花びらが運ばれなく成ったからであった。それまでの春の様に、風が、ここに桜の花びらを運ばなく成った為に、この年の春は、いつもの春とは違うものの様に思はれたのであった。

                      52

 罪人の前には、ただ、土が有るばかりであった。罪人は、その土を見つめ、そこが、桜の花に埋もれた春の日を思ひ起こした。

                            


                     53

 そして、罪人は、風の音に耳を澄ました。その音に、罪人は、その国の桜を思ひ浮かべ、その年の春を祝ったのだった。

                          


                  54

        そうして、その年の春は、終わった。


                      55

 それから、再び、一年の時が流れた。春が訪れ、桜が、満開に成った或る日、この国に、異変が起こった。家臣たちが、花見の席で、領主に、突然、隠居を迫った
のであった。その数年、領主は、ますます猜疑心を深め、家臣を誰彼と無く、疑ふ様に成ってゐた。そして、暴政を振るいながら、酒に溺れ、周囲の者の声を聞かず、この国の政(まつりごと)を誤った道に導いてゐたが、領主のそうした振る舞いを見かねた家臣たちは、あらかじめ、示し合わせた上で、花見の席で、突然、領主に隠居を迫ったのであった。
 その年の花見は、かつて、花見が催されてゐた丘が、領主の放った火によって、桜を失い、花見の場とは成り得なかった為、城から遠い、桜に囲まれた池のほとりで催されてゐた。領主は、そこで、今年も、主な家臣たちを引き連れ、酒と音曲の宴を催したのであったが、宴がたけなわと成り、領主が、猿楽を舞い終わった直後、領主は、そこに居る重臣達の全員から、突然、隠居をする様にと、迫られたのであった。

                            

                      56

 領主は、激怒した。そして、皆を代表して、自分に隠居を勧めた家臣に向かって、罵声を浴びせた。だが、その者は、ひるまなかった。それどころか、領主の前に正座したまま、領主のこれまでの振る舞いを諭し、重ねて、隠居を勧めたのであった。
 領主は、最早、自分の心を抑えられなかった。領主は、刀を取り、抜いた。そして、その刀で、自分の前に正座するその家臣を手打ちにしようとしたのである。すると、その時、側に居た別の家臣が、立ち上がった。そして、一言、かん高く、「殿!」と叫ぶと、刀を抜き、その声に振り返った領主を、その場で、斬ったのであった。


                     57

 領主は、倒れた。そして、女たちが悲鳴を上げる中、自らの血の中で、立ち上がろうとした。だが、領主は、最早、立ち上がる事は、出来無かった。その領主に、家臣は、「御免。」と言い、とどめを刺した。領主が、隠居を拒んだ場合、家臣たちは、こうする事を、あらかじめ決めてゐたかの様であった。
 家臣たちは、立ち上がった。そして、満開の桜の下で、領主を囲んで、合掌した。その合掌の輪の中で、領主は、間も無く、息絶えた。

                            

                    58


三日後、罪人の寺を、馬に乗った使者が、訪れた。


                      59

 それは、城からの使者であった。鎧(よろい)に身を包んだその使者は、山門の前で馬を下りると、住職に面会を求めた。そして、現はれた住職に、昼頃、城から重臣たちが、寺を訪れる旨を告げた。住職は、何事かと思った。その時、住職は、 三日前、花見の席で起きた事は、まだ、知らずにゐたからである。

                            

                     60

 住職は、鎧(よろい)に身を包んだ使者が訪れた事に、城で、何か異変が起きたのではないか?と思った。だが、その使者は、住職と寺の者たちに、それ以上は何も言はず、馬を返して、城へと戻ったのであった。
                      

                     61

 やがて、その使者が、馬に乗った重臣たちを先導して、再び現れた時、住職は、この国に、何事かが起きた時を確信したのであった。

                            


                      62

    使者の予告通り、重臣たちは、昼過ぎ、寺に現はれた。そして、出迎えた住職に深々と礼をすると、土牢に居る罪人への面会を求めたのだった。

                            

                     63

 その時、罪人は、いつもの様に、土牢の中で写経をしてゐた。すると、風の中で、墓地の方角から、数人の足音が、近ずいて来るのが、罪人の耳に、確かに聞こえたのであった。罪人は、写経の筆を止めた。そして、風の中で、その近ずく足音に耳を澄ましたのだった。

                            


                     64

 間も無く、その足音の主(ぬし)たちは、住職と共に、罪人の牢の前に姿を現した。そして、その足音の主達は、罪人に、大いなる知らせを告げたのであった。

                            

                     65

 重臣たちは、かつて桜で埋もれた土牢の前に、並んで正座した。そして、両手をその地面に置いて、牢の中の罪人に、深々と礼をした。罪人も、牢の中で、正座し、それに対峙した。すると、中央に座した重臣が、顔を上げ、一同を代表するかの様に、「お久しゅうございます。」と言ふ言葉を口にした。それは、三日前、花見の席で領主を斬った、あの重臣であった。罪人は、牢の中で、無言で礼をして、その重臣を見つめた。
「大殿が、お亡くなりになられました。」と、その重臣は言った。その言葉に、住職は、耳を疑った。そして、瞠目し、その重臣の背中を見つめた。だが、罪人は、その言葉に反応もせず、牢の中で正座を続けた。

                            


                     66

 「大殿は、三日前、花見のさ中に、突然の病(やまい)にて、お亡くなりになられました。」重臣は、そう言ふと、牢の罪人に向かって、再び、深々と頭を下げた。重臣は、そして、静かな声で、この国の家督は、隣国に追放されてゐた領主の長男によって継がれた事を告げた。罪人は、重臣が語った、これらの言葉を無言で聞いた。そして、その同じ言葉を、住職も、重臣たちの横で、動転する心を抑えながら、聞いたのだった。


                     67

 罪人は、目を閉じた。そして、牢の中で正座したまま、土牢の前の地蔵に合掌した。

                      68

 罪人が、その目を開けた時、土牢の入り口は、開けられてゐた。

                     69

そうして、罪人は、九年の時を経て、土牢を出たのだった。

                     70

 翌日、罪人は、あの丘に向かった。罪人は、住職に、九年前、領主が、花見の席で自分を捕えたあの丘を訪れたいと言ひ、住職と共に、土牢を出たばかりの体で、杖を突きながら、あの丘の頂きへと向かったのだった。


桜(『第一集・第一話』)

                      71

 罪人は、一歩一歩、丘を登った。九年の牢生活にも関わらず、罪人がその丘を登る事が出来たのは、罪人が、土牢の中でも鍛錬を続けた事の結果に違い無かった。しかし、それは、杖を突いての事であった。しかも、その歩みは、余りにもゆっくりとした物だったので、罪人が、杖を突きながら丘を登るその姿に、かつての侍大将の姿を重ねる事は、到底出来無かった。
 そんな罪人の姿に、住職は、昨日、罪人が土牢から出された事が、悲しむべき事であったかの様な感情を抱いた。そして、その罪人の後ろを歩きながら、罪人と共に、その丘の頂きを目指したのであった

                      72

 やがて、二人は、その丘の頂きにたどり着いた。そして、
そこで、目を疑ふ様な光景を見たのであった。


                     73

 それは、桜を失った、その丘の光景であった。即ち、二人は、かつてその丘をおおってゐた桜の木々が皆切られ、ただその切り株だけが、地面をおおう、その丘の無残な光景を目にしたのであった。

                     74

 罪人は、その無残な光景の前で立ち止まった。そして、その上に広がる空を見上げた。

                            

                      75

 空は、晴れ渡ってゐた。そこには、白い雲が、ただ一片、浮かんでゐるだけだった。


                     76

       罪人は、その白い雲を見つめた。

                 


                      77

 空は、静まり返ってゐた。そこには、何も音は聞かれなかった。風は有ったが、桜が切られたその丘に、音を立てる物は、何も無かったからである。風は、何も音を立てずに、その丘に残された桜の切り株の上を通り過ぎて行くばかりだった。そして、その丘の上には、空を舞ふ鳥の姿も無いのであった。


                     78

 空の何処からも、鳥の声は、聞こえなかった。その静まり返った空は、ただ青く、果てしが無いのだった。

                     79

 その空を見上げて、罪人は、初めて涙を流した。

                      80

 罪人は、目を閉じた。そして、目を閉じたまま、そこで、静かに、その青空を仰いだ。罪人は、そうして、何も聞こえない青空から、何かが聞こえるのを待とうとしてゐる様だった。だが、その空からは、矢張り、何も聞こえて来ないのだった。
 
                           


                      81

 空は、ただ、青く、そして、静まり返ってゐるのだった。
 
                            


                       82

 住職は、罪人のその後ろ姿を見守った。そして、無言で、その姿に合掌したのだった。


                      83

 罪人は、目を開けた。そして、その眼差しを、その青い空から、もう一度、地上へと落とした。そこには、先程(さきほど)と変はらぬ、無数の桜の切り株の光景が有った。そして、罪人は、その切り株の中に、先程と同様、立ち尽くす自分の存在を確認したのであった。その現実が、自分が、その青い空を見上げてゐた間にも、変はってゐない事を、罪人は、そうして、そこで、確かめたのだった。

                      84


 罪人は、その丘を、見回した。そして、その痩せた足を踏み出すと、そこから、ゆっくり、前に歩き始めたのであった。


                      85

 住職は、その後を追った。だが、住職は、罪人に声を掛ける事は、出来無かった。住職には、罪人が何処に行くのかを問ふ事は、出来無かったからである。そして、罪人に、何処に行けとも、行くなとも言ふ事は、出来無かったからである。住職は、ただ、罪人の後を追った。そして、罪人の後ろを、少し離れて、罪人の行く先を知ろうとしたのであった。すると、罪人が向かふ丘の稜線の向こうに、丘の下に広がる、この国の風景が、現れたのであった。そして、その野と畑の光景が、蒔絵の様に見渡される場所に来た時、罪人は、そこで、足を止めたのであった。

                     86

 罪人は、目の前に現れた、その風景を見つめた。そして、そこに広がるこの国の春の光景に、目を奪はれたのであった。


                      87

 一見すると、それは、冬のままの光景であった。野も、林も、冬枯れのまま、草を枯らし、葉を落としたまま、まだ淡い日の光を浴びてゐるだけであった。そして、その淡い光の中で、遠くの寺の瓦屋根が、黒い光を放ってゐるのが、それらの冬枯れの光景の中で、不思議な程目立ち、丘からそこを見下ろす罪人の目を惹くのであった。だが、その冬枯れのままに見えるこの国の風景の所々に、白い花を付け始めた、桜の木々が有るのを、罪人は、見たのであった。

                      88

 罪人は、無言で、その光景を見つめ続けた。そして、何事かを思ひ続けた。

                           

                      89

 すると、罪人のその思ひに答える様に、辺りに、静かな風が吹いた。

桜(『第一集・第一話』)

                       90

 その風は、音も無く、罪人を抱擁した。そして、その丘の静寂を破らぬまま、罪人の足元の枯れ草を、静かに波打たせた。その、音も無く波打つ枯れ草を、罪人は、奇跡を見る様に、見つめた。

                       91

 やがて、その風は、止んだ。すると、罪人の足元の草は、波打つのを止めた。その時、罪人には、その丘を流れる時間が、止まったかの様に思へたのだった。

                      92

 「俺は、夢を見てゐたのか?」と、罪人は、思った。「俺は、ずっと、ここに居たのではなかったか?」罪人は、そう自問しながら、ゆっくり、周りを見回した。そこに、自分が捕らえられた日と変はらぬ、満開の桜の光景が有るのではないかと、思ったのである。だが、そこに、罪人が想ひ描いた光景は、存在しなかった。その丘には、矢張り、あの、満開の桜の光景は無く、罪人が、先程目にした、無残な丘の光景が有るばかりなのであった。
                                

                      93

 その現実の前に、罪人は、牢の中で味わった事の無い、深い、敗北感に打たれた。牢の中で、罪人は、この丘の桜の光景を思ひ描く事が出来た。それは、たとえ、自分が訪れ、見る事が出来ずとも、牢の外に、間違い無く存在する、光景であった。それを、罪人は、牢の前に来る桜の花びらから、思ひ出し、思ひ描く事が出来たのである。だが、その桜が、全て失はれた事を自分の目で見た時、罪人は、最早、牢の中でして居た様に、思ひ出す事も、思ひ描く事も出来無く成ってしまったのであった。それほど、罪人の目の前の現実は、過酷であった。そして、その光景が失はれた事に、罪人は、自分の妻と子供が、最早、この世に居ない事を確信させられたのであった。その丘の光景こそは、罪人の、領主に対する敗北の証しなのであった。

                            

                      94

 罪人は、後ろを振り向いた。そこには、罪人を見守る住職の姿が在った。住職は、罪人の視線を受けながら、罪人のその視線が、何を言おうとして居るかを、理解した。住職は、小さくうなずくと、無言のまま、罪人が、その視線で告げた通り、ゆっくり、後ろを向いて、罪人と共に、この丘を去ろうとした。そして、罪人も、それに続いて、住職の後をゆっくりと歩いて、今来た道を戻ろうとその場を後にし始めたのであった。

                      95

 その時であった。罪人は、自分の横の桜の切り株に、小さな、一輪の白い花が咲いて居るのを、目にしたのだった。

                            


                      96

 それは、その切り株から咲いた、小さな桜の花であった。その花は、領主によって切られた桜の古木の切り株から、ただ一輪、野の花の様に咲いて、そこで、風に揺れて居るのであった。その切り株から咲いた花を目にした罪人は、その切り株の前で、足を止めた。罪人のその様子に、住職も、足を止めた。そして、住職は、罪人の様子を見つめたが、罪人は、住職のその視線は忘れて、その場で、その切り株に咲いた花を見つめ続けたのだった。
     


                      97

 何処からか、風がやって来た。そして、その風の中で、遠くで鳴く春の鳥の声が聞こえた。その鳥の声に、住職は、自分と罪人が、春を迎えた事を感じた。

                           

                      98

 罪人は、静かに、そこに膝を落とした。そして、その場に膝まずいて、その無残に切られた桜の切り株に、自分の手を触れた。桜は、切り株に置かれた、罪人のその手の前で、静かに、音も無く、風に揺れて居た。

                       99


 「ここに咲いて居たのか。」罪人は、その小さな桜の花を見つめながら、そうつぶやいた。


                     100

 罪人は、静かに立ち上がった。そして、住職と共に、春の光の中で、その丘を下った。

                                             (終)

    平成十八年三月三十日(木) 脱稿

    夕暮れの桜を見ながら

http://nishiokamasanori.cocolog-nifty.com/blog/

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    お読み頂き、ありがとうございました。

   御感想などお有りでしたら、この後に御自由に

   お書き下さい。


 
                   作者

2007年4月 8日 (日)

『桜・第二集・第一話』


数年前、桜を主題に、私が書いた短編小説の一つを
御紹介します。


題名は『桜』です。


『桜・第二集』と言ふ短編小説集の一つです。
以下の前書きと共に、お読み頂ければ、幸いです。

                 西岡昌紀


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桜を主題にした短編小説集です。桜は散っても、一年中桜を思い続ける人々の為の短編集ですが、悲しい話が多く成るかも知れません。第一集は歴史的な物語を書く場とし、こちらは、現代の物語を、主人公を三人称とする形式で書く場とします。


            西岡昌紀(作者)

http://nishiokamasanori.cocolog-nifty.com/blog/


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                  桜

              第二集・第一話

                  1

 雨はやんでいた。だが、風は鳴り続けていた。その春の
風が夜通 し空を吹き荒れ。咲き始めた桜をその夜の内にも
散らせてしまうの ではないか、と思はれた。
 朝が来て、苅野恵一は、その風の音に目を覚ました。
そして、ガラス戸の外を見て、彼は、冬が終わった事を知った。
 彼が住むマンションの南側には、駐車場を隔てて大き
な欅の木が立ってゐる。彼は、その木が好きでこのマンショ
ンに住んだのであるが、その欅の梢には、昨日は気付かなか
ったが、もう新しい緑が萌え出ていた。
 その新緑の梢が風に激しく揺れる光景に、彼は、冬が終
はり、春が来た事を知ったのである。
 妻はまだ眠っていた。恵一は、その妻を起こさない様に、
そっと起き上がった。そして、寝室のガラス越しに見える
外の光景を見続けたが、その光景を見ながら、恵一は、自分
が夢の中に居る様な気持ちを覚えた。
 ガラス戸の向こうに見えるのは、いつもの見慣れた風景で
あった。しかし、その見慣れた筈の風景が、その朝は、全く
別の世界の様に思はれたのである。
 そこでは、新緑の木々が揺れ、その木々の後ろを雲が目を
疑ふ速さで流れて居た。そして、街全体が、ガラス戸の向こ
うで、雨上がりに特徴的な、晴れとも曇りともつかない不思
議な光に包まれて居た。そんな光景が、恵一に、いつもの見
慣れた風景を、全く別の世界の様に感じさせたのかも知れな
かった。

 恵一は、その外の光景を見ながら、風の音に耳を傾けた。
それは、まるで、魔物が空を渡りながら発する叫びの様な
音であった。その魔物の声を聴きながら、恵一は、もう桜は
咲き始めただろうか、と思った。

                 2

 苅野恵一は、一年前、たった一人の息子を失った。
彼の息子は、六歳でこの世を去ったのである。その息子の
死から、早くも一年と二か月が経とうとしていた。
 その朝、眠りから目覚めた恵一は、風の音を聴きながら、
去年の今頃の事を思い出した。そして、ガラス戸の外を見て、急に、自分が一年前の世界に引き戻された様な気持ちを抱いた。
 彼は、しかし、すぐに、それが、去年の今頃にも、こんな風の強い日が有ったからに過ぎない事に気が付いた。今日は、間違い無く、一年前の世界ではなかったのである。ただ、風が、一年前の世界に自分が引き戻された様な錯角を抱かせて居たのであった。
 風の音を聴きながら、恵一は、自分の死んだ息子の事を思い出した。彼の息子は、病気でこの世を去って、もう彼の前に姿を見せる事は無い筈だった。しかし、その息子は、恵一の心の中に絶えず居た。そして、恵一は、息子がこの世を去ってからも、何故か、息子が何処かに居る様な気がしてならないのであった。この朝も、恵一は、目覚めた時から、息子がすぐ近くに居る様な気がして居た。そして、起きてガラス戸の外を見た時、彼は、春が訪れたその外の世界の何処かに、彼の息子が居る様な気がしたのであった。この春の風が吹き荒れる外の世界の何処かで、息子が遊んでいる様な気がしたのである。外に出よう、と恵一は思った。

                           

                   3

 時間と言う物は、常に流れ続けている。しかし、人は、しばしばその事をその事を意識しない。そして、或る時、何かの折りに、不意に長い時間が流れた事に気付き、驚くのである。その日の恵一もそうであった。彼は、風の音を聞き、突然、時間が流れている事を思ひ出した。そして、彼は出掛け、外の世界に春が来た事を知ったのであった。日曜日の朝、街に人影はまばらであった。街には、ただ風の音だけが満ちていた。その早春の街に出て、恵一は先ず、マンションの周りの道を一周散歩しようと考えた。その為に、彼は、或る道を東に行こうとした。そこには、この辺りの名所である桜並木が有る。
 その道を恵一は歩こうと思ったのである。そこを歩けば桜が咲き始めたかどうかが分かるに違い無い。恵一は、そう思ったのであった。その道は、いつもの朝は、小学校に通う子供達が、並んで歩く道であった。だが、その日は、日曜日なので、そこに子供達の姿は無い。ただ風だけが、そこで朝の光と戯れ、道の上で、目に見えない妖精の様に遊んで居るのが感じられるのであった。その誰も居ない静かな道を恵一は歩いた。そして、彼が歩くその道が、桜のトンネルに差し掛かった時、恵一はそこに立ち止まった。彼は、そこで風の音を聴いたのである。そして、その立ち止まった場所で、彼は、自分の頭上で風に揺れる桜の梢を見上げた。見ると、恵一が予想した通り、その梢には、白い小さな桜の花が、風に揺れながら、確かに咲いているのだった。花の数はまだ少なかったが、冬の間ずっと眠り続けたその枝の先で、桜は、咲き始めて居たのであった。そして、その桜の花が付き始めた枝の網の上には、雲と青空が混在する、不思議な、雨上がりの、春の空が、果てし無く広がってゐるのであった。
 その空を見上げながら、恵一は、不思議な気持ちを覚えた。空には、無数の雲が有った。そして、その無数の雲たちは、まるで戦場に向かふ様に、桜の枝の彼方で、大空を何処かへと向かって居た。その雲たちを見上げながら、恵一は、春は戦いの時なのか、と思はずに居られなかった。そして、その天の戦いが始まるのを見ながら、彼は、春に追われ、この空を退散する冬を心の中で一度だけ呼んだ。冬は、もう遠い世界へ旅立っていた。そして、北に向かう雲たちの上には、昨夜の雨で洗われた春の青空が、雲たちの戦いを見守るかの様に、現れていた。恵一は、その青空を見て、神が、その青空から、雲たちを祝福している様な錯覚を覚えた。その祝福を風は、地上の存在たちに告げてゐた。

恵一は、再び歩き始めた。しばらく歩くと、道は、その桜のトンネルを抜けた。桜は、まだ咲き始めたばかりであった。だが、もう数日で満開に成るに違い無い、と恵一は思った。

                  4

 それから、数日が流れた。桜は、日ごとに花を開かせ、街は、その桜に包まれ、いつもの年と同じ様に春を迎えた。恵一は、毎日、日曜日に歩いた桜並木の下を歩き、頭上の桜が、一日ごとに満開に近ずくのを確かめた。そして、その静かな道の上に散った桜の花びらを踏んで、春の訪れを感じた。その間、道は、日毎、花びらに覆われ、木漏れ日が、その花びらと、道の上で戯れていた。恵一は、毎朝、その桜並木の下を歩き、仕事に出掛けた。そして、仕事が終はると、春の夕暮れの中、再びその桜並木の下を歩いて、家へと戻った。並木の古桜たちは、恵一がそうしてその下を通る度に頭上でささやき、音も無く、花びらを落として恵一を祝福した。桜の花びらは、それらの古桜の枝から落ちると、宙を回りながら、音も無く、遊ぶ様に恵一の周りを舞い、そして、地に落ちるのであった。或る日の夕方、恵一は、もう満開に成ったその桜並木の下を歩きながら、ふと、頭上を見上げた。見ると、頭上の桜の枝と花の間に、三日月が、その白い姿を浮かべて、桜ごしに、恵一を見下ろしているのであった。恵一は、立ち止まり、そこで、桜の花の間に浮かぶその三日月を見上げた。すると、微風が吹き、満開の白い花に装われた桜の枝は、その白い三日月を囲みながら、音も無く、静かに揺れた。そして、その揺れは、恵一の頭上から桜の梢の別の場所へと、静かに波打ち、頭上の枝の何処かへと移動して行った。それは、日曜日の朝に吹いた、あの嵐の様な風ではなく、優しい、ささやく様な、春の夜の微風であった。その微風に頭上の桜は揺れ、その花の中に浮かんだ三日月が、藍色の夕空から恵一を見下ろしているのであった。見ると、その藍色の夕空の一か所に、白く輝く、宵の明星が有った。その明星は、三日月のすぐ横で、白い光を放ち、月と伴に、いつまでもそこに在るかの様に思われた。 恵一は、桜の上に広がる、その夕暮れの空に心を寄せた。そして、不意に、遠い子供の頃、自分が、今と同じ様に、家路に、こうして満開の桜の下で、夕空に浮かぶ三日月を見上げた事が有った事を思い出した。それは、彼がもうずっと忘れていた記憶であったが、その遠い日の記憶が、その時、不意に、大人と成った彼の心に甦ったのである。恵一は、驚き、そして、不思議な幸福感を覚えた。自分の中で、忘却され、 失われかけていた美しい記憶が、不意に生き返ったからである。心の中の美しい思い出が不意に甦る時、人は幸福を覚える。それが、今、恵一にも起きたのである。その甘美な感情を味わいながら、恵一は、一瞬、その遠い子供の子供の日の春の夕暮れから、今この瞬間までの時間が、実は、永い夢であったのではないか?と思った。その永い時間、自分は、夢を見て居たのだ、と思ってみたのである。しかし、それは、矢張り、空しい試みであった。恵一の心には、その遠い子供の日から、今日までの様々の記憶が去来した。彼は、その遠い日の夕方から、今日までの時間は、矢張り有ったと確信した。そして、その場でもう一度、桜の枝の間の夕空とそこに浮かぶ三日月を見上げて、その遠い日の夕暮れと今の間の時間を回想した。恵一は、その永い時間を経て、あの遠い子供の日に見た三日月が、今再び自分の上に現れ、あの日と同じ様に自分を見下ろしている事に、不思議な感情を抱いた。それは、まるで、自分が宇宙に見守られていた事を不意に思ひ出させられた様な、静かな、深い、不思議な幸福感であった。その不思議な幸福感は、恵一が、子供を失った日から、永く忘れていたものであった。

                           

                   5

 その夜、恵一は、家で仕事をした。彼は、職場から家に持ち帰った書類を完成させるのに一時間ほど時間を費やし、それを完成した。それから、彼は新聞を読み、テレビのニュースを見たが、その日のニュースに、彼が特別関心を惹かれる事柄は、何も無かった。彼は、世界で起きる様々な事柄を静かに聞き、何も言わずに時間を過ごした。
外では、風が再び吹き始めていた。それは、日曜日に吹いた嵐の様な風ではなかったが、それでも、ガラス戸の向こう側で、木々がその風に揺れ、その木々の上を、雲が流れる夜空の光景を想像させるに十分な風の音であった。その風の音を聴いて、恵一は、不意に、昔読んだ本の一節を思い出した。そして、居間の椅子を立つと、隣りの部屋に行って、その部屋の本棚から、一冊の古い本を取り出した。彼は、そして、その本を手に、再び居間に戻って来た。その時、彼の妻が、声を掛けた。
「お茶飲む?」
「ああ、飲む。」と恵一は答えた。妻はやかんを火にかけ、紅茶を入れる用意を始めた。そして、「テレビ切っていい?」と尋ねたので、恵一は、「いいよ。」と答えた。妻はテレビを切った。すると、部屋の中は静まり返り、外を吹く風の音が、二人の耳にはっきりと聞こえる様に成った。
彼らが住むこのマンションは、木々に囲まれた静かな場所に在るので、元々、夜は静かであった。その静けさの中で、風の音と、やかんの音だけが聞こえていた。恵一は、その外から聞こえる風の音とやかんの音の中で、かつて何度も読んだ、その本を黙読した。
やがて、湯が沸いた。妻が紅茶を入れ、恵一は、その紅茶をすすった。すると、妻は恵一に尋ねた。
「何を読んでいるの?」
恵一は、目を上げた。そして、妻と視線を合わせると、その問いに答えた。
「日記だよ。」
「日記?」
妻は聞き返した。
「あなたの日記?」
恵一は、首を横に振った。そして、微笑して言った。
「詩人の日記だよ。」
「詩人?」
妻は、紅茶を口にしながら、もう一度聞き返した。
恵一は、頷いた。すると、妻は、紅茶を口にしながら言った。
「読んでくれる?」
恵一は、妻の顔を見つめた。そして、自分も紅茶を口にしながら、
「いいよ。」と答えた。
「百年以上前の日記だよ。」
恵一は、そう言って、その本の一節を静かな声で読み始めた。

「夜更けぬ。」

恵一は、言葉を切った。

「風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう。降雪火影にきらめきて舞ふ。」

妻は、何も言わずに聞いて居た。

「ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」

ガラス戸の外で、風が鳴って居た。

                    6

 恵一は、続きを読んだ。

「今朝大雪、葡萄棚(ぶどうだな)堕ちぬ。」

外で、風が大きな音を立てた。

「夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ。ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒(よさむ)の木枯しなるかな。雪どけの滴声軒をめぐる。」

妻は、何も言わなかった。しかし、恵一は、妻が、これを聞きながら、遠い昔の冬の終わりを思い描いている、と思った。

「梅咲きぬ。月ようやく美なり。・・・・・三月十三日、夜十二時、月傾き風急に、雲わき、林鳴る。・・・・・同二十一日、夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁(のが)れし。」

妻は紅茶をすすっていた。恵一は、読むのをやめて、その妻の様子を見た。
すると、妻は、静かな声で尋ねた。
「誰の日記なの?」
恵一は、妻を見つめて答えた。
「独歩だよ。」
「独歩?」
「国木田独歩さ。『武蔵野』の一節だよ。」
妻は何も言わなかった。
「明治時代の東京だよ。渋谷の辺りさ。明治時代には、こんな場所だったんだよ。」恵一は、本の間に指をはさんだまま語った。
「国木田独歩が、或る年の秋から翌年の春まで、当時は林しか無かった渋谷に住んだ時の日記だよ。これは、冬が終わって、春が近ずいて来る頃の日記さ。明治29年だから、1896年か。」妻は、恵一の言葉を聞いて居た。そして、しばらく考え込むと、言った。
「日本語ってきれいね。」
恵一は、微笑んだ。
「でも、その日記は、何だか寂しいわ。」妻は、何か、考え事をする様に眼をぶった。
「世界から誰も居なくなって、その誰も居ない世界に一人で生きているみたい。
とても寂しいわ。」
恵一は、下を向いて、答えを探した。そして、答える代わりに、何も言はずに、その本の別の一節を読んだ。

「今日は終日霧たちこめて野や林や永久(とこしえ)の夢に入らんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨(しぐれ)にしめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなリ。」

恵一は、そこで本を閉じた。彼は、そして、静かに言った。
「林に出かけて、耳を澄ましながら座っていると、足元で、犬が眠っているな
んて、最高の幸福だと僕は思うな。」
妻は、何も言わずに、何かを考えていた。そして、恵一に尋ねた。
「この人は、でも、何故、そんな寂しい所で暮らしたの?」
「失恋したからだよ。」
「失恋?」
「不幸な結婚をしたんだ。」
妻は、意外な答えを聞いた様だった。
「失恋したのに、そんな暮らしをしたら、もっと寂しかったんじゃないかしら。」
恵一は、微笑んだ。
「ずっと、そう言う生活をしたのね?」
「ずっとじゃないよ。その年の秋から翌年の春までだよ。」
妻は、その答えに反応した。
「じゃ、やっぱり寂しかったんでしょう?」
恵一は、何も言わなかった。
「どんなに自然が美しくても、やっぱり、寂しかったのよ。」妻のその言葉は、寂しげだった。恵一は、答えを見つけられなかった。妻は、眼をつぶって、又、何か考える様な表情をした。その表情は美しかったが、それは、何かを考えていると言うより、何かに耳を澄ましている様な様子であった。風の音を聞いて居るのだろうか?と恵一は思った。

                   7

 「真一は・・」と妻が言った。妻は、息子の名前を口にしたのだった。
「風の音を怖がった事が有ったわ。」妻はそう言って目をつぶった。恵一は、妻のその表情を見つめた。
「三つの時だったかしら。一晩中風が吹いて、物凄い音が聞こえた夜、怖がって寝付かなかったのよ。私が横に寝て、ようやく寝たけど、子供には、風の音が怖かったのね。」
妻が回想している光景は、ほんの数年前の物である筈だった。しかし、妻のその表情は、まるで、遠い昔の出来事を思い出している様な表情であった。
「桜が咲いた頃だったわ。」と妻は言った。
「だから、頂度、今頃だったのね。」
恵一は、妻のその言葉を聞いて、確かに、そんな事が有った様な気がした。そして、三歳だった頃の息子が、妻の横で風の音を怖がっている様子を記憶と想像の入り混じった光景として、自分の脳裏に浮かべようとした。その光景は、確かに、彼の記憶の片隅にも、残されていたのである。
「有ったね。そんな事が。」恵一は、独り言を言う様に言った。そして、妻の心の中に在る情景が、自分の心の中にも在る事に、ほのかな甘さと悲しさを感じずに居られなかった。
「毎年・・」と妻は言った。
「桜が咲くと風が吹くのね。まるで、意地悪をしに吹くみたい。」妻は、淡々としてそう言った。
「そうだね。」と恵一は言った。妻の言葉は、不意に思い出した息子の事をそれ以上話すまいとしている様であった。恵一は、そう感じて、死んだ息子の事を語ろうとする事をやめた。その代わりに、恵一は、外を吹く風の音に耳を澄ませ、外の様子を想像した。外では、日曜日ほどではないものの、風が鳴って居た。風は、夜の闇の中を徘徊し、満開と成った桜の梢を揺らしていたが、その風の音は、恵一に、桜がもうすぐ散り始める事を予感させる物であった。それは、魔物の声の様であった。その風の音を聴いて、恵一は、ふと、あの「魔王」と言う歌曲の事を思い出した。夜の闇の中、父が、男の子と馬に乗って何処かに向かっている。すると、馬の上で、男の子は、父に、その闇の中に恐ろしい形相をした魔王が居ると言う。しかし、父は、あれは木が風に揺れているだけだよと息子に言う。息子は、怖いよ、お父さん、魔王が僕を連れて行こうとしている、と言う。しかし、父には魔王が見えない。・・・そして、走り続けた後、父が馬を止めると、息子は死んで居る・・・。風の音を聴きながら、恵一は、ふと、シューベルトのあの恐ろしい歌曲を思ひ出したのだった。

                   8

 恵一がそんな事を思い巡らしていた時、不意に妻が尋ねた。
「日曜日どうするの?」
恵一は、一瞬戸惑った。妻は、恵一の顔を見つめて居た。
「真一のお誕生日。午後はどうするの?」
恵一は、妻の問いの意味を理解した。
「午後だね?」
「そう。」
恵一は、少し考えたが、答えが浮かばなかった。その日は、死んだ息子の誕生日であった。それで、恵一と妻は、日曜日は、朝から息子の墓を訪
れる予定だったのである。だが、墓参りの後、どうするかは決めて居なかった。それを妻は尋ねたのであった。
「別に予定は無いよ。」恵一はそう言って、妻を見た。妻は少し考え込む様な顔をして、それから言った。
「そう。じゃ、お墓に行った後、ちょっと母の所に行って来たいのだけれど、いいかしら?」
「もちろんいいよ。おかあさん、お体の方はどうなのかな?」
「最近は少しいいみたい。電話では元気そうだったけど。」
「そう。それならいいけど。」そう言って、恵一は、紅茶を飲み干した。妻は、立ち上がり、やかんに再び火をつけようとした。
「お茶飲む?」
「いやいい。」
恵一がそう言うと、妻は、火をつけるのをやめようとした。が、「私は飲むわ。」と言うと、火をつけ、再び椅子に座った。妻は、そして、何も言はずに腕を組み、しばらく考え込む様な顔をしていた。外では、風の音が続いていたが、妻は、その音には注意を払わない様に見えた。恵一は、妻のその表情をさりげなく見ながら、死んだ息子が、生きていれば日曜日に八歳に成る筈だった事を不意に意識した。そして、そうしたら、自分達は、今度の日曜日をどの様にして送っただろうか、等と考えたが、それはつらい事だった。恵一は、それから、息子が小さかった頃の誕生日の事を思ひ出そうとしたが、それは、更につらい事だった。恵一は、その様に、自分の心の中に浮かぶ息子の事柄を、もちろん、口にはしなかった。そして、ただ沈黙するだけだったが、そうした沈黙は、裏を返せば、彼の心象を映し出す鏡に他成らなかった。恵一は、そうした空想をやめて、妻を見た。妻は無言であった。そして、やかんの湯が沸騰するのをただ待っている様に見えた。しかし、その時、恵一の心には、不意に、今、妻の心にも同じ空想が、そして、同じ思い出が浮かんでいたのではないか?と言う想像が浮かんだのであった。妻の心にも、今、自分の心に浮かんだのと同じ様に、息子が生きていたら、今度の誕生日には何をしただろうか、と言う想像が浮かんでいたのではないだろうか?或いは、息子が小さかった頃、一緒に祝った誕生日の光景が浮かんで居たのではないか?恵一の心に、不意にそんな想像が浮かんだのであった。それを確かめる術は無かった。もちろん、妻にそれを尋ねる事は出来たが、そんな事をしようとは思はなかった。その代はりに、彼は、無言のまま、妻の表情を観察しようとした。すると、不意に妻が尋ねた。
「何を考えているの?」
恵一は、驚いた。が、その驚きを面には出さずに、彼は答えた。
「別に。」そう言って、彼は、妻を見つめた。
「そう。」と妻は言った。恵一は、妻の次の言葉が何であるかと想像した。
が、妻は、何も言わなかった。そして、やかんが音を立て始めた時、妻は、ようやく言葉を発した。
「日曜日、お天気どう成るかしらね。」
「そうだね。」と恵一は言った。
「天気予報では、晴れたり曇ったりと言っていたけど。」
そう言って、妻は、髪に手を触れた。それから、妻は頬ずえをついて横を向き、ガラス戸の向こうに目をやった。そこには、夜の闇が在るばかりである。
そして、その闇の中を、風が、なおも吹き続けていた。妻が、その外を見つめるので、恵一もそちらを見た。すると、そこに、風に揺れる木が、街灯の白い光に浮かんで揺れる光景が見られた。が、恵一は、すぐにその光景から目をそらした。そして、「お湯が沸いたよ。」と小さな声で言った。

                            

                   9

 日曜日がやって来た。前日の夜、恵一は、その日の天気を気に掛け、先週の日曜日の様な風が吹くのでは、と心配した。しかし、その日は朝から晴れ渡り、風も穏やかだった。風は、吹いては居たが、前の日曜日の様な強い風ではなく、春らしい、穏やかな朝に、その日出掛けようとする二人は恵まれたのであった。
 恵一と妻は、共に早起きをし、予定通り、息子の墓へと出掛けた。二人は、前の日に、自宅のオーヴンで焼いたケーキを持って墓地を訪れ、先ず、一通り息子に水を遣り、白い菊の花で墓を囲んで合掌すると、その真新しい墓石の前に、そのケーキを置いた。ケーキの上には、ロウソクが八本立てられて居たが、恵一が、そのロウソクに火を付けようとすると、大人しかった風が悪戯をして、その火を消そうとした。
「意地悪ね。」と妻が言った。
「そうだね。」と言って、恵一は、微笑した。
墓の周りでは、風が運んで来た桜の花びらが、地面の上で踊っていた。それは、墓地に植えられた桜が散って、風に運ばれて来た桜の花びらだった。それらの白い花びらたちは、まるで、彼らの息子の誕生日に招かれて、二人の周りに集まって来た無邪気な妖精たちの様に思われた。その妖精たちの中で、二人は、あらかじめ約束した通り、静かにハッピバースデーを口ずさんだが、矢張り、最後まで歌う事は出来無かった。
「泣かないって、言う約束だったのにね。」と妻が言った。
恵一は何かを言おうとしたが、言葉に成らなかった。
「ごめんね。」と妻が息子に言った。
「お誕生日なのに。」妻は、それ以上言葉を続けられなかった。
 二人がそうする間にも、風は、ケーキのロウソクの炎を消そうとした。だが、恵一は、両腕でその炎を風から守り、風は、やがて、その悪戯を諦め、何処かへ去って行った。恵一は、それを確かめ、両腕を広げた。
「じゃあ、消そうね。」と恵一は、言った。
妻は無言で頷いた。恵一は、妻と一緒に、ケーキの上の八本のロウソクの炎を息子の代わりに、ふっと一息で吹いて消した。すると、それを祝う様に、二人の足元で、桜の花びら達が、又踊った。二人は、それから、墓石の前でもう一度両手を合わせた。そして、じっと目を閉じて、遠い世界に居る二人の息子に、誕生日おめでとう、と心の中で語り掛けた。やがて、二人は静かに目を開けたが、真っ直ぐに息子の墓石を見つめたまま、お互いの顔を見ようとはしなかった。そして、お互いに語り掛けようともしなかった。

 永い沈黙が流れた。二人は何も言わず、墓石の前に立ち続けた。そして、春の風が、今日は静かに、二人が息子の誕生日を祝うのを邪魔しない様、そっと通り過ぎた時、自分達の足元で、又、桜の花びらが踊った事にも、二人は、気が付かなかった。

                  10

 墓参りを終えると、妻は、自分の母親の家へと向かった。二人は、夕食を共にする事とし、恵一は、電車で、先に、マンションの自宅へ向かった。天気は良かったが、別段予定は無く、何処かに行く気もしなかったので、恵一は、妻と別行動を取る事に成ったその日の午後を、自宅近辺を散策して過ごす積もりであった。
 自宅に向かう電車には、空席が有った。だが、恵一は座ろうとせず、その空いた電車の中で、恵一は、ドアの横に立ち、ドアのガラス越しに流れる外の世界をぼんやりと見つめ続けた。空は晴れている。その処々に白い雲が浮かび、それそれに何処かへ行こうとしている。恵一には、その雲たちが、幸福で自由そうに見えた。そして、その春空の下の風景のあちらこちらに、満開の桜が、たびたび現われ、電車が向かう方向と逆の方向に向かって、次々に流れ去って行くのを、恵一は、ぼんやりと眺め続けた。電車が、急行の待ち合わせで、長く止まった時、恵一は、電車の中を一瞥した。恵一のすぐ横には、矢張り、墓参りの帰りらしい初老の女性が座って眠り込んでゐた。そして、その女性客の向かいには、ラケットを持った女子高校生が二人座っていた。二人は何か話し込んでいたが、恵一には、その会話の内容は聞き取れなかった。又、少し離れた座席には、四、五歳の女の子とその両親らしい夫婦が、少し疲れた表情で座り、急行が向かいのホームに来るのを待ち続けていた。その夫婦の前には、ベビーカーが置かれ、その中で丸顔の赤ん坊がすやすや眠っていたが、女の子は、その赤ん坊の寝顔を覗き込み、あやす積もりなのか、その青いベビーカーを静かに、前後に動かし続けていた。そのベビーカーの中の赤ん坊が、女の子なのか、男の子なのか、を恵一は考えた。身に付けている物の色が白なので、どちらなのか判らなかったのである。しかし、話し込んでいる夫婦に、女の子が「あやちゃん寝てるよ。」と言ったので、恵一は、その赤ん坊が、女の子である事を知った。すると、ホームの向こう側に急行が到着した。その音に、恵一の横の座席で眠っていた女性が目を開け、あわてて、立ち上がった。そして、ベビーカーの赤ん坊を連れた両親も立ち上がり、母親が、「行くわよ」と言ひ、一家は、ホームへと向かった。他にも、多くの乗客が、向かいにやって来た急行に乗り換えようとして、電車からホームに向かったが、中には、恵一の電車に残る乗客も居た。恵一から離れた場所で本を読んでいる背の高い男性や、赤ん坊を抱いた若い母親などがそうだったが、恵一は、それらの人々を見守りながら、それらの人々が何処に行くのだろうか?などと取りとめの無い事を空想した。そして、ホームの向かいにやって来た急行に乗るよりも、その空いた電車に乗ったまま、そんな空想を続け、ゆっくりと、そのドアの横で、外の風景を見続けたい、と、恵一は、思ふのだった。

                           

                  11

 恵一が自宅に着いた時、時計は、午後二時を回っていた。洋服を着替えると、恵一は、予定して居た通り、自宅の周囲を散策する事にし、誰も居ない部屋を後にして、外に出た。その際、恵一は、今日は少し寒いと思ったので、何を着ようかと迷った挙句、一番薄いコートを着て外を歩く事にした。
 外は、さっきより少し風が強く成って居た。その風は、先週吹いた嵐の様な風ではなかったが、その風が、町中の桜を揺らし、散らそうとしている事は、明らかな様に思われた。恵一は、外に出ると、先ず、いつもの様に、桜並木の道を東に向かって歩き始めた。桜並木は満開で、その上、今日が日曜日である為に、いつもより、明らかに人通りが多かった。そして、そこでは、道行く人々の足元で、桜の花びらが風に吹かれて踊り、人々と共に、春を祝っているかの様に思われた。恵一は、その道を歩きながら、自分の足元で風に踊る、それらの桜の花びらに目を落とした。花びらは、風が吹く度に、地面を駆け巡り、恵一の足元を離れ、そして、又戻って来た。そのあわただしい動きは、悪戯な妖精の様であったが、風は、その妖精達を、もうすぐ、何処か遠くに連れて行くに違い無かった。恵一は、そうして桜並木を一人で歩き、やがて、並木道の終わりに来た。そこで恵一は、いつもの様に立ち止まり、頭上に広がる桜の枝を見上げた。彼の頭上は、満開の桜で覆われていたが、その満開の桜の梢は、そこで、絶えず風に揺れ、その間から、青空が断片と成って、地上にこぼれ落ちようとしているのであった。その満開の桜が風に揺れ、花びらを散らす時、恵一は、それらの花びらが、その桜の枝からではなく、その枝の上に広がる青空から舞い降りて来る様な錯覚を抱かずには居られなかった。そして恵一は、その空から舞い降る桜の花びらを見守りながら、今年も、桜に別れを告げる時が来た事を知ったのであった。

                   12

 恵一は、道を曲がった。彼は、桜並木が終わるその四つ辻を
右に曲がり、南に向かって歩いた。その道は、人気(ひとけ)の少ない、静かな道で、その道を歩くと、恵一は、南風と春の太陽を正面から感じた。そして、その道をしばらく歩くと、彼は、別の四つ辻に辿り着き、そこを右に曲がった。
 恵一は、そうして、その静かな道を西に向かって歩き、地図の上で長方形を描いて、自宅に戻ろうとして居るのであった。それは、恵一のいつもの散歩道であった。恵一は、その道を、ほとんど何も考えず、ただ風の音を聞きながら、道の上で揺れる木々の影と、その上で踊る桜の花びらを見ながら、無心に歩き続けたのであった。やがて、恵一の行く手に踏み切りが現れた。そこで、その踏み切りを渡らず、右に曲がるのが、彼のいつもの散歩道である。そして、踏み切りの前を右に曲がり、数分も歩けば、もう、彼のマンションである。そこには、別の桜並木が有った。そして、彼のマンションの前には、行きつけのコーヒー店が有る。その店でコーヒーを飲もうと、恵一は、考えて居た。だが、風の音を聞きながらここまで歩いて来た彼は、踏み切りの前で立ち止まった。彼は、この日に限って、そこで、いつもの様に、踏み切りの前を右に曲がり、自分のマンションの方向に歩くべきかを迷ったのであった。
 恵一は、目の前の踏み切りを見つめた。今、その踏み切りは、開いている。今なら、ここを渡る事が出来る、と恵一は思った。すると、いや、やめよう、と、もう一人の彼が、心の中で言った。あの店でコーヒーを飲んで、それから、マンションに帰ろう、とその声は言った。が、恵一は、決心が着かなかった。あそこに行くべきか、いや、やめよう、と心の中で迷いながら、恵一は、決心が着かなかった。
 そうする内に、踏み切りの警報機が、カンカンとやかましく鳴り始めた。赤いランプが点灯し、黒と黄色の遮断機が、ゆっくりと、恵一を線路の向こうの世界と隔て始めたのだった。「さあ、右に行こう」と一人の恵一が言った。が、心の中に聞こえるその自分の声を聞きながら、恵一は、なおも決心が着かず、踏み切りの前に立ち続けたのであった。


                           
                   13

 恵一は、その場で立ち尽くした。そして、いつの間にか、踏み切りの遮断機の側に立ち、そのままそこで、電車の通過を待って居たが、それは、明らかに、彼が踏み切りの向こう側に行こうとして居るからに他成らなかった。
 やがて、彼の左手から、電車が大きな音を立てて現れ、速度を落としながら、恵一の目の前の踏み切りを通過した。電車は、そうして減速しながら、右手に見える駅に構内に入り、そこで停車しようとして居るのであった。そうして、電車が、減速しながら、目の前を過ぎると、警報機の音は止み、黒と黄の遮断機がゆっくりと上に上がった。すると、線路の向こうで遮断機が上がるのを待っていた数人の歩行者が、こちらに向かって歩き始め、それに釣られて、恵一は、なかば無意識にその踏み切りを渡り、線路の向こう側へと歩き始めて居たのであった。それは、まるで、恵一が自分の意志で歩き出したのではなく、線路の向こうに住む精霊が、彼をそちらに招いたかの様であった。その精霊は、この踏み切りで、恵一を待ち続けて居たのかも知れなかった。そして、その精霊は、踏み切りを渡らずに帰ろうとして居た恵一に、桜が咲いている内においでとささやき、恵一を踏み切りの向こうの、あの懐かしい場所に導こうとして居るに違い無かった。

                  14

 恵一は、踏み切りを渡った。そして、踏み切りの向こう側に続く道を、彼は、ゆっくりと歩き続けた。彼は、西に向かって居た。が、彼は、すぐに道を左に曲がった。そこで、彼は、正面から来る南風を顔に感じた。そして、西に傾き始めた太陽の光を体に受けながら、しばらく歩かなかったその道を南へと歩いた。そこは、車が殆ど通らない、細い静かな道だった。前にも後ろにも、人影は無く、ただ、光だけが溢れて居た。時々、前から来る風が、微かに音を立てる以外、物音は何も聞かれなかった。この静けさを、恵一は、忘れて居なかった。ほんの数年間まで、彼は、この道を何度も歩いて居たからである。その道を歩きながら、恵一は、自分が、急に、思い出の中に迷い込んだ様な錯覚を抱かないでは居られなかった。両側の家々も、木立ちも、恵一が記憶して居る通りであった。そして、何よりも、その静寂さが、彼が記憶するその道の思い出その物だったのである。その静かな道を、恵一は、誰にもすれ違はずに、一人歩き続けたのだった。
 やがて、恵一は、目的の場所に近ずいた。その場所は、恵一の行く手の右側に在る小さな公園である。そこを訪れる為に、彼は、こうして、この道を歩いて来たのであった。そして、その公園の前に来た時、恵一は、想像して居た通り、その人気(ひとけ)の無い公園で、桜の木々が、満開の花に包まれて居るのを目にしたのであった。その光景を見た時、恵一は、それらの満開の桜が、ここで自分を待って居たのだ、と思わずには居られなかった。

                   15

 公園の入り口で、恵一は、立ち止まった。彼の目の前には、桜の花びらに埋もれた公園の地面が有った。そして、その一面の花びらの上で、木漏れ日が静かに踊る光景を、恵一は、その場に立ち止まったまま、見つめ続けたのだった。そこには、砂場が有った。そして、低い鉄棒が有り、運艇(うんてい)が有った。全ては、彼が記憶して居る通りだった。ここに、彼は、しばしば、息子を連れて来た。そして、桜が満開の時、この一面の花の上を、彼の息子は、走り回ったのだった。

                   16

 恵一は、その公園に足を踏み入れた。公園には、誰も居なかった。そして、その誰も居ない公園で、桜は満開と成り、今、散ろうとして居るのだった。どうして、誰もここに居ないのか?と恵一は思った。その彼の足元で、白い桜の花びらが、地面を踊り、そこに足を踏み入れた恵一を迎えてゐた。




                  17

 恵一は、その場で、辺りを見まわした。見ると、砂場の向こうに在る水飲み場の水道の蛇口から、少しだが、水が出ている事に恵一は、気が付いた。
 恵一は、その水を止めようと思った。そして、その見覚えの有る水飲み場に近寄った。彼は、手で水道の蛇口を回して水を止めたが、その蛇口は、思ひの他、固かった。彼は、その時、その水道の蛇口が固い事を思い出し、その蛇口の手応えが変はって居ない事に驚いた。そして、その蛇口の上の水飲み口を見て、息子が、それを噴水の様にしてはしゃいだ事を思い出した。
 その銀色の水飲み口が、木漏れ日に反射して輝く様子も、彼が記憶して居る通りであった。何も変はっていない、と彼は思った。

                 18

 今、そこに、彼の息子の姿は無かった。だが、恵一は、その水飲み場で、悲しみを感じては居なかった。彼は、ただ、そこに在る全てが懐かしいのだった。恵一は、そこで目に入る物が、何一つ変はっていない事に感動し、彼の息子がこの世を去ってから、一度も味わった事の無い喜びで、心が一杯に成ったのだった。


                   
                 19

 今、そこに、彼の息子の姿は無かった。だが、恵一は、その水飲み場で、悲しみを感じては居なかった。彼は、ただ、そこに在る全てが懐かしいのだった。恵一は、そこで目に入る物が、何一つ変はっていない事に感嘆し、彼の息子がこの世を去ってから、一度も味わった事の無い喜びで、心が一杯に成って居たのだった。

                 20

 それは、不思議な感情であった。恵一は、自分の心の中に湧き上がるその甘美な感情に驚かずには居られなかった。
恵一は、息子が死んでから、この公園に足を踏み入れた事は無かった。それは、言ふまでも無く、この公園には、息子の思い出が溢れていたからだった。彼の目の前に在るこの水道にも、鉄棒にも、運梯にも、そして、この公園に咲く桜にも、
死んだ息子の思い出が満ちていた。その事を記憶して居るが故に、息子が死んだ後、恵一は、一度もこの公園に足を向けようとしなかったのだった。恵一は、ここで自分を待つ物は、ただ、悲しみだけだと思っていたのである。
 ところが、今ここに来て、恵一は、悲しみではない、甘美な感情が、自分を待って居た事を知ったのであった。彼は、この水飲み場や、鉄棒や、運梯に再会した喜びで心が一杯と成り、もうここを離れたくないと言う気持ちすら感じ始めて居たのであった。そして、ここに在る全ての物が、そのままである事を確かめ、それらの物に触りたいと言う気持ちを、彼は、もう、どうにも押さえられなく成って居たのだった。
 彼は、この公園の桜が、自分をここに連れて来たのだ、と思った。

                  21

 恵一は、頭上を見上げた。彼の上には、桜の枝が、空を満開の花で蔽ふ様に広がってゐた。その頭上の桜の枝から、白い花が次々に舞い降りるのを、恵一は、その思い出に満ちた水飲み場で、一人、地上に迎えた。桜は、絶えず散り続け、いつまでも散りやまないかの様だった。恵一は、それらの桜の花びらが、天国から舞い降りて来る様な錯覚を覚えた。そして、恵一は、桜の枝の間から見える春の青空に、夕方の気配が漂い始めてゐる事に気付いた。花びらたちは、その夕方の気配が漂い始めた青空の何処かから舞い降り、地上に舞い降りるかの様だった。
 桜の花は、そうして、宙を舞い降り、音も無く、この公園の土の上に落ちるのだった。そして、それらの花たちは、地面に落ちると、すぐに、そこで花たちを待つ風と、公園の黒い土の上で踊り始めるのだった。

                  22

 地面に降りた花びらたちは、そこで、花たちの祭りをしてゐるのだった。そして、その祭りは、今日が最後の日なのだった。

                  23

 恵一は、自分の足元で踊る、それらの桜の花たちを見つめた。そして、自分が、その花たちの祭りの只中にゐる事を知ったのだった。


                  24

 恵一は、その祭りが、いつまでも、終わらずに続く事を願った。そして、その祭りの中に、いつまでも居たいと思うのだった。

                 25

 恵一は、その場を離れた。彼は、その水飲み場を離れて、公園の奥へと向かった。公園の奥には、彼にとって、懐かしい場所が、他にも有るのだった。彼は、そこに行って、花たちの祭りの終わりを見届けようと思ったのだった。

                  26

 恵一は、水飲み場を囲む植木の向こう側に、或る場所が有る事を知ってゐた。彼は、そこに足を向けた。そして、そこに足を踏み入れた時、彼は、目の前の光景に、心が一杯に成る事をどうする事も出来無かった。そこは、ブランコと砂場が有る、桜の木陰だった。今、そこに人影は無く、恵一の目には、ただ、風が、木漏れ日の中で、そのブランコを静かに揺らして
ゐる光景が入って来ただけだった。だが、ただ風に揺れるブランコだけが有るその桜の木陰の光景が、恵一の心を、切なく成るまでに揺さぶったのだった。


                  27

 その二つのブランコは、恵一の目の前で、静かに揺れてゐた。恵一は、その緑色のブランコを良く覚えてゐた。そして、風に揺れる、そのブランコの銀色の鎖も覚えてゐた。そのブランコの光景は、恵一の記憶の中に在るこの場所の光景と、何も変はらない光景だった。その光景を見て、恵一は、自分は、ずっと、ここに居たのではないか?と思った。全ては、夢だったのではないか?自分は、ここで長い夢を見て居たのではなかったのか?と、恵一は、思ったのだった。
 恵一は、そうでない事を知って居た。それは、もちろん、一瞬の錯覚であった。だが、恵一は、自分を襲ったその錯覚を、ほんの短い間だけ、信じようと決めたのだった。

                  28

 恵一の目の前に、恵一の息子は、居なかった。だが、恵一は、息子は、何処かに居るのだと、信じようとした。今、世界は、桜に包まれて居る。その美しい世界の何処かに、自分の息子は居て、遊んで居るのだと、恵一は、自分で、自分に言って、聞かせたのだった。
 息子は、ただ、今、何処かに姿を消して居るだけなのだ。この公園の何処かで、或いは、この桜が満開に成った世界の何処かで、自分が家に連れて帰るまでのほんの短い間、一人で遊んで居るだけなのだ、と、自分に聞かせ、恵一は、その古びたブランコの前に、歩み出たのだった。

                 29

 ブランコは、かすかに揺れてゐた。その二つのブランコは、仲良く並んだまま、そこを通りすぎる春の風に、本当に、微かに揺れてゐるのだった。恵一には、それが、見えない精霊が、並んで、ささやき合ふ姿の様に思えた。


                 30

 恵一は、その見えない精霊たちを見つめ続けた。そして、その場を通り過ぎる春の風の音に耳を澄ました。風は、恵一に、「遊びに行こうよ。」と言ってゐる様だった。

                  31

 恵一は、その風に誘われた様に、左手の方向に足を向けた。すると、彼は、すぐ、その公園の小さな砂場と、その砂場を囲む場所に導かれ、そこで足を止めた。もう、そこより先の場所は無かった。そこは、植え込みで囲まれ、桜の木々が影を落とす、その公園の最も奥まった、袋小路の様な場所なのだった。そこには、木の枠で囲まれた砂場と、その砂場の前の、古びた、緑のベンチが有るだけだった。
 そして、その砂場とその砂場の周りの地面は、桜の木々の木陰と成って、夕方の木漏れ日が、風と遊ぶ場と成ってゐるのだった。
 恵一は、その光景の前に立ち尽くした。そして、「これで終はりだ。」と、自分につぶやいたのだった。

                  32

 「これで終わりだ。」恵一は、その言葉をもう一度口にした。恵一は、桜と別れる時が来た事を知ったのだった。
                          

                   33

 目の前の砂場と地面は、風に散った桜の花びらに埋め尽くされてゐた。そこは、今、世界で一番美しい場所であった。


                
                  34

 恵一は、その、世界で一番美しい場所に足を踏み入れた。そして、その砂場の前で立ち止まると、自分の前の砂の上で舞う、桜の花びらたちの動きに目を落としたのだった。
 花たちは、そこで、今年最後の群舞を踊ってゐた。そして、恵一に、今年の別れを告げてゐるのだった。

                  35

 恵一は、自分がここに来なかった事を悔やんだ。そして、何故、自分は、もっと早く、ここに来なかったのか、と思った。だが、彼がそう悔やむ間にも、桜は、散り、風に舞い続けるのだった。「これで終わりだ。」と、恵一は、もう一度、心の中でつぶやいた。

                   36

 恵一は、一旦、砂場の前で止めたその足を踏み出し、砂場の周りを歩き始めた。そうする事で、彼は、風に地を舞ふ花びらたちと一緒に成って、地面の上をいつまでもさ迷い続けようとしてゐるかの様だった。彼は、あちらに歩き、こちらに歩いた。そして、そうして歩く自分の足元を絶えず見つめて、白い花びらたちが何処に行こうとするのかを追った。だが、花たちは、何処へ行こうとしてゐるのでもなかった。桜の花びらたちは、この砂場の周りを、渦(うず)を巻きながら、ただ、あちらへ行き、こちらへ行くのを繰り返してゐるだけなのだった。それは、子供が、大勢集まって、鬼ごっこをしてゐるのと同じであった。そして、恵一は、知らぬ間に、その鬼ごっこの鬼を、そこで演じてゐるのだった。

                   37


 日は、傾き始めてゐた。頭上の桜の梢から注ぐ光は、既に、夕方の気配を帯び始めてゐた。その夕方の光の中で、恵一は、そうして、土の上で踊る桜の花びらを追い続けた。
 花びらと共に、木々の影が、地面の上を揺れ動いた。そして、恵一の影も、それに加わった。影たちは、鬼に成った恵一から逃げる様に、地面を動き、それでゐて、恵一から離れようとはしないのだった。花びらと影たちは、そうして、いつまでも、その公園の土の上で、恵一から逃げ続ける様に思はれた。

                   38

 不意に、風が、止まった。花たちは、逃げるのを止め、恵一の足元で、その動きを止めた。すると、公園を、一瞬の静寂が支配した。その静寂に、恵一は、夢から覚めた様な気持ちを覚えた。彼は、足を止め、そこに在る自分の影を見つめた。恵一は、その静寂に、風が、もう二度と吹かないのではないかと言ふ恐れを抱いたのだった。だが、その静寂は、すぐに破られた。風は、再び吹き始め、桜は、再び、恵一の足元で踊り始めたのだった。彼の頭上で、桜は、海鳴りの様な音を立て、一斉に、その花を散らした。散った花は、風に舞い、恵一の体を包んだ。風は、強まり、彼の足元では、桜の花たちが、竜巻の様な渦(うず)を巻いた。それは、いよいよ、祭りの最後に、花たちが舞ふ踊りではないかと思はれた。その風の只中で、恵一は、静かに目を閉じた。

                  39

 目を閉じると、桜は、永遠に咲いてゐるかの様であった。彼の周りに咲く桜は、いつまでも散らずに、ここで永遠に咲いてゐるかの様に思はれた。そして、彼が見て来た事も、味わって来た感情も、全ては、夢であったかの様に思はれるのだった。目を開ければ、そこには、自分が愛したものが有り、自分が失ったと思ったものは、実は存在し続けてゐるのではないか?と、恵一は思った。後は、目を開ければ良いのだ。そうすれば、自分の前に、自分のいとしい物が、自分が失ったと思った物が、そこに在るのではないか?恵一には、そう思えるのだった。だが、彼は、目を開ける事が出来無かった。目を開ければ、その思いが本当かどうかが、明らかに成る事が、恵一には、恐ろしいのだった。恵一は、目を閉じ続けた。そして、目を閉じたまま、春の風の音に、耳を傾け続けた。

                  40

 その時だった。その風の中で、恵一は、子供の声を聞いた。それは、息子の声だった。「お父さん」と呼ぶその声に、恵一は、思はず、目を開けた。

                 41

 だが、彼の息子は、居なかった。目を開けると、彼は、矢張り、そこに一人で立ってゐるのだった。

                 42

 見ると、彼の前に、一本の桜の枝が落ちてゐた。その枝は、春の風に折れ、その風に運ばれて来た物の様だった。


                 43

 恵一は、その枝を見つめた。すると、遠くで、子供の声が聞こえた。それは、公園の何処かで、小さな男の子が、父親を呼ぶ声であった。恵一は、今、自分が聞いたのは、その声だったのだろうか?と、思った。

                 44

 「いや、違ふ。」と、恵一は、思った。「あの声ではない。今の声は、もっと近くでした。そして、あれは、間違い無く、真一の声だった。」彼は、そう確信した。そして、もう一度、辺りを見回した。

                  45

 だが、子供は、居なかった。彼の前には、ただ、春の風が、彼の為に運んだ、桜の
花びらが有るばかりだった。


                 46

     桜は、彼の足元で、いつまでも踊り続けた。


                (終)





平成15年7月23日(水)脱稿

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16019498&comm_id=1862933


2007年2月12日 (月)

エリーゼの為に

*


以前書いた短編小説を御紹介します。
『エリーゼのために』と言ふ短編です。


2007年2月12日(月)

 
             西岡昌紀

htp://blogs.yahoo.co.jp/nishiokamasanori/

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(以下本文)

           エリーゼの為に

               1

   私の家には、小さな宝物が有った。それは、
  小さな古いオルゴールである。そのオルゴール
  は、昔、遠い国からやって来た。そして、永い
  間開けられる事も無く、戸棚の奥でひっそりと
  眠って居たのである。その古いオルゴールを、
  今日、私は、開ける事にした。それは、今日が
  特別の日だからである。

               2

   「開けるよ。」と、私は言った。娘は、小さく
  うなずいた。私は、娘の前で、オルゴールのねじ
  を巻き、その蓋を開けた。すると、その古い木の
  箱の中から、あの物悲しい旋律が、永い眠りから
  目覚めた様に、静かに、ゆっくりと、流れ始めた
  のだった。そして、その物悲しい旋律とともに、
  蓋を開けられたそのオルゴールの舞台の上で、
  世界一小さなバレリーナが、私と娘の前で、ゆっ
  くりと回り始めたのだった。
   娘は、何も言わなかった。そして、無言のまま、
  私の隣りで、その小さなオルゴールの人形を見つ
  めて居た。その娘の前で、その娘の小指ほどの小
  さなバレリーナは、その古い箱から流れる悲しい
  旋律に合わせて、ゆっくりと回り続けるのだった。
   このオルゴールは、今、永い時を経て、私と私
  の娘の前で、眠りから目覚めたのだった。そして、
  この小さなバレリーナは、今日、初めて、私の娘
  の前に姿を見せたのであった。
   娘は、魔法を見る様な眼で、その人形を見つめ
  て居た。

                  3

   今日は、娘の三歳の誕生日であった。私は、以前、
  娘にそのオルゴールの話をした事が有った。すると、
  娘は、それを見たいと言った。そこで、私は、娘の
  誕生日に、そのオルゴールを見せる約束をしたので
  あった。そして、今日、その約束通り、私は、その
  オルゴールを家の奥から取り出し、娘の前で開けた
  のであった。
   その私の娘の前で、小さなバレリーナの人形は、
  静かに、ゆっくりと回り続けた。
  --そのオルゴールから流れる悲しげな旋律に合は
  せて。
   このバレリーナは、この箱の中で、永い間、この
  時を待ち続けて居たのである。
   この古い木の箱の中で、娘の前で踊る日を静かに
  待ち続けて居たのである。そして、今、永い時を経
  て、この悲しげな旋律に合わせて、ここで、再び踊
  り始めたのであった。
   と、不意に、その旋律は止まった。同時に、その
  小さなバレリーナの踊りも、不意に止まった。まる
  で、時間が止まった様に、オルゴールは、止まった
  のであった。
   私と娘が居る部屋は、深い静寂に包まれた。
  娘は、何も言わなかった。静寂の中で、私は、その
  何も言はない娘の横顔を見つめた。そして、娘が、
  何かを言ふのを待った。だが、娘は、何も言おうと
  しなかっ
   やがて、その沈黙の後、娘は、私の顔は見ないま
  ま、小さな声で、こう言ったのだった。
  「もう一度。」
   私は、微笑んだ。そして、「いいよ。」と言って、
  オルゴールを手に取ると、もう一度、そのねじを巻
  き、娘の前に置いた。すると、その古いオルゴール
  は、再びその旋律を奏で始め、小さなバレリーナは、
  再び、踊り始めたのだった。
   娘は、その踊りを見つめ続けた。

                  4

    そのオルゴールは、私の母の持ち物だった。
   私は、子供の頃、母が、私にこのオルゴールを
   見せた日の事を覚えている。
    その日、母は、テーブルの上に、このオルゴ
   ールを置いた。そして、初めてそのオルゴール
   を目にした私の前で、何も言わずに、その蓋を
   開けた。すると、この物悲しい旋律が静かに流
   れ始め、その旋律に乗って、この小さなバレリ
   ーナが、その箱の上で、ゆっくりと回り始めた
   のだった。--今日と同じ様に。
    その遠い日の光景を、私は、確かに覚えて居
   た。
    私は、ゆっくりと回転する、この小さな人形
   に心を奪われた。母も、私の横で、何も言わず
   に、そのゆっくりと回る小さな人形を見つめて
   居た。それは、まるで、夢の中に居る様な、不
   思議な時間であった。

    その指先ほどの小さな人形は、静かに、ゆっ
   くりと回り続けた。そして、その悲しげな旋律
   が不意に途絶えた時、人形は、その旋律と共に、
   静かに止まったのであった。人形が止まると、
   後には、静寂だけが残った。そして、母は、な
   おも、無言であった。

    母は、何も言わずに、もう一度ねじを巻いた。
   そして、私の前で、もう一度、オルゴールにそ
   の旋律を奏でさせた。すると、小さなバレリー
   ナは、再び、その旋律に合わせて、私の前で、
   ゆっくりと回り始めるのであった。

    その旋律は、美しく、悲しかった。私には、
   その旋律は、この世で一番美しい音楽である様
   に思へた。そして、その旋律と共に、時間が流れ、
   去る事を、子供心に、悲しいと感じたのだった。

                5

    そのオルゴールの調べは、余りに美しかった。
   そして、その調べが流れる時間は、余りに美しか
   った。初めて、このオルゴールの調べを聴いたそ
   の日、私は、その美しい時間がやがて失われる事
   を思って、ひどく悲しく思ったのだった。子供で
   はあったが、私は、時が流れる事の悲しさを、そ
   の旋律が流れる中で、感じ、知ったのであった。
   それが、私が、初めてこのオルゴールを見た日の
   記憶であった。その日から、もう、二十年以上の
   時が経っていた。今日、このオルゴールを開ける
   時、私は、あの日、自分が感じたその悲しい感情
   を思い出していた。そして、あの日、自分が、ど
   うして、そんなに悲しい気持ちに成ったのかと、
   考へたのだった。私には、その遠い日の自分の感
   情が、一つの謎の様に思われたのである。あの時、
   何故、私は、この調べに、そんな深い悲しみの気
   持ちを抱いたのだろうか?
    そう考える私の前で、娘は、オルゴールを見つ
   めて居た。


                   6

    「お父さん。」と、娘が言った。娘は、私を見
   つめて居た。
   「このお歌なあに?」と、娘は、尋ねた。
   娘は、「歌」と言ったのだった。私は、それを
   「歌」と呼ぶべきか、迷ひながら、娘に答えた。
   「エリーゼの為に、と言う曲だよ。」
   娘は、考え込んだ。
   「エリーゼってだあれ?」と、娘は、尋ねた。
   私は、答えに窮した。考えてみれば、私は、その
   答えを知らないのである。
   「昔の人だよ。」と、私は答えた。
   「昔の人?]
   「そう。遠い昔の人だよ。」
    娘は、何も言わなかった。そこで、私は、もう
   一度、オルゴールのねじを巻いた。そうなのだっ
   た。エリーゼとは、誰なのだろう?私は、今日ま
   で、それを知らなかったのである。

    この調べを最初に聴いたのは、そのエリーゼだ
   ったのだろうか?

                    7


    その時、私は、不意に、自分が、その同じ問いを
   母にして居た事を思い出した。
    母が私にこのオルゴールを見せたあの日、私は、
   娘と同じ事を、母に尋ねて居たのである。娘が尋ね
   るまで、私は、その事を忘れて居た。そして、その
   全く忘れて居た事を、私は、娘に問われて、今、思
   ひ出したのだった。母は、その時、こう答へたので
   ある。
   「お母さんの国の人よ。」
    母のその言葉を、私は、自分の娘に問われて、今、
   何十年ぶりに思い出したのであった。
    この小さなオルゴールは、私の母が、ドイツから、
   遠い日本に持って来た物であった。母は、このオル
   ゴールと共に、この国に来たのである。そして、そ
   れを開けた時、母は、遠い自分の国の事を思ひ出し
   たに違い無いのである。

    私は、娘に、「遠い国の人だよ。」と、言って答
   へた。すると、娘は、黙ってう なずいた。  
    「もう一度聴かせて。」と、娘は言った。私は、
   微笑み、娘に言われた通り、もう一度、そのオルゴ
   ールのねじを回した。すると、オルゴールは再びあ
   の調べを奏で始め、小さなバレリーナは、再び、私
   の娘の前で回り始めたのだった。

    「エリーゼ」と、私は、心の中で、その名をつぶ
   やいた。彼女は、この世で最初に、この調べを聴い
   た人だったのだろうか?・・・
    それは、永遠の秘密なのである。そして、その秘
   密を秘めながら、この古いオルゴールは、今日も、
   その調べを奏でるのである。

                              (終)


   平成十四年十二月十二日(木)
  (2002年)

           西岡昌紀(にしおかまさのり)

http://blogs.yahoo.co.jp/nishiokamasanori/

(この小説はフィクションであり、実在する
 人物、出来事とは関係が有りません。特に、
 文中の「私」は、作者(西岡)とは全く
 関係が有りません。本作品の著作権は、
 著者である西岡に有ります。批評の為の
 引用は自由ですが、その場合は、仮名使ひ
 を含めて、文章のいかなる変更も、理由を
 問はず禁じます。本作品の著作権は、著者
 である私(西岡)に有ります。著者は、
 この作品の転用を固く禁じます。)


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