« エリーゼの為に | トップページ | 桜(『第一集・第一話』) »

2007年4月 8日 (日)

『桜・第二集・第一話』


数年前、桜を主題に、私が書いた短編小説の一つを
御紹介します。


題名は『桜』です。


『桜・第二集』と言ふ短編小説集の一つです。
以下の前書きと共に、お読み頂ければ、幸いです。

                 西岡昌紀


------------------------------


桜を主題にした短編小説集です。桜は散っても、一年中桜を思い続ける人々の為の短編集ですが、悲しい話が多く成るかも知れません。第一集は歴史的な物語を書く場とし、こちらは、現代の物語を、主人公を三人称とする形式で書く場とします。


            西岡昌紀(作者)

http://nishiokamasanori.cocolog-nifty.com/blog/


---------------------------

                  桜

              第二集・第一話

                  1

 雨はやんでいた。だが、風は鳴り続けていた。その春の
風が夜通 し空を吹き荒れ。咲き始めた桜をその夜の内にも
散らせてしまうの ではないか、と思はれた。
 朝が来て、苅野恵一は、その風の音に目を覚ました。
そして、ガラス戸の外を見て、彼は、冬が終わった事を知った。
 彼が住むマンションの南側には、駐車場を隔てて大き
な欅の木が立ってゐる。彼は、その木が好きでこのマンショ
ンに住んだのであるが、その欅の梢には、昨日は気付かなか
ったが、もう新しい緑が萌え出ていた。
 その新緑の梢が風に激しく揺れる光景に、彼は、冬が終
はり、春が来た事を知ったのである。
 妻はまだ眠っていた。恵一は、その妻を起こさない様に、
そっと起き上がった。そして、寝室のガラス越しに見える
外の光景を見続けたが、その光景を見ながら、恵一は、自分
が夢の中に居る様な気持ちを覚えた。
 ガラス戸の向こうに見えるのは、いつもの見慣れた風景で
あった。しかし、その見慣れた筈の風景が、その朝は、全く
別の世界の様に思はれたのである。
 そこでは、新緑の木々が揺れ、その木々の後ろを雲が目を
疑ふ速さで流れて居た。そして、街全体が、ガラス戸の向こ
うで、雨上がりに特徴的な、晴れとも曇りともつかない不思
議な光に包まれて居た。そんな光景が、恵一に、いつもの見
慣れた風景を、全く別の世界の様に感じさせたのかも知れな
かった。

 恵一は、その外の光景を見ながら、風の音に耳を傾けた。
それは、まるで、魔物が空を渡りながら発する叫びの様な
音であった。その魔物の声を聴きながら、恵一は、もう桜は
咲き始めただろうか、と思った。

                 2

 苅野恵一は、一年前、たった一人の息子を失った。
彼の息子は、六歳でこの世を去ったのである。その息子の
死から、早くも一年と二か月が経とうとしていた。
 その朝、眠りから目覚めた恵一は、風の音を聴きながら、
去年の今頃の事を思い出した。そして、ガラス戸の外を見て、急に、自分が一年前の世界に引き戻された様な気持ちを抱いた。
 彼は、しかし、すぐに、それが、去年の今頃にも、こんな風の強い日が有ったからに過ぎない事に気が付いた。今日は、間違い無く、一年前の世界ではなかったのである。ただ、風が、一年前の世界に自分が引き戻された様な錯角を抱かせて居たのであった。
 風の音を聴きながら、恵一は、自分の死んだ息子の事を思い出した。彼の息子は、病気でこの世を去って、もう彼の前に姿を見せる事は無い筈だった。しかし、その息子は、恵一の心の中に絶えず居た。そして、恵一は、息子がこの世を去ってからも、何故か、息子が何処かに居る様な気がしてならないのであった。この朝も、恵一は、目覚めた時から、息子がすぐ近くに居る様な気がして居た。そして、起きてガラス戸の外を見た時、彼は、春が訪れたその外の世界の何処かに、彼の息子が居る様な気がしたのであった。この春の風が吹き荒れる外の世界の何処かで、息子が遊んでいる様な気がしたのである。外に出よう、と恵一は思った。

                           

                   3

 時間と言う物は、常に流れ続けている。しかし、人は、しばしばその事をその事を意識しない。そして、或る時、何かの折りに、不意に長い時間が流れた事に気付き、驚くのである。その日の恵一もそうであった。彼は、風の音を聞き、突然、時間が流れている事を思ひ出した。そして、彼は出掛け、外の世界に春が来た事を知ったのであった。日曜日の朝、街に人影はまばらであった。街には、ただ風の音だけが満ちていた。その早春の街に出て、恵一は先ず、マンションの周りの道を一周散歩しようと考えた。その為に、彼は、或る道を東に行こうとした。そこには、この辺りの名所である桜並木が有る。
 その道を恵一は歩こうと思ったのである。そこを歩けば桜が咲き始めたかどうかが分かるに違い無い。恵一は、そう思ったのであった。その道は、いつもの朝は、小学校に通う子供達が、並んで歩く道であった。だが、その日は、日曜日なので、そこに子供達の姿は無い。ただ風だけが、そこで朝の光と戯れ、道の上で、目に見えない妖精の様に遊んで居るのが感じられるのであった。その誰も居ない静かな道を恵一は歩いた。そして、彼が歩くその道が、桜のトンネルに差し掛かった時、恵一はそこに立ち止まった。彼は、そこで風の音を聴いたのである。そして、その立ち止まった場所で、彼は、自分の頭上で風に揺れる桜の梢を見上げた。見ると、恵一が予想した通り、その梢には、白い小さな桜の花が、風に揺れながら、確かに咲いているのだった。花の数はまだ少なかったが、冬の間ずっと眠り続けたその枝の先で、桜は、咲き始めて居たのであった。そして、その桜の花が付き始めた枝の網の上には、雲と青空が混在する、不思議な、雨上がりの、春の空が、果てし無く広がってゐるのであった。
 その空を見上げながら、恵一は、不思議な気持ちを覚えた。空には、無数の雲が有った。そして、その無数の雲たちは、まるで戦場に向かふ様に、桜の枝の彼方で、大空を何処かへと向かって居た。その雲たちを見上げながら、恵一は、春は戦いの時なのか、と思はずに居られなかった。そして、その天の戦いが始まるのを見ながら、彼は、春に追われ、この空を退散する冬を心の中で一度だけ呼んだ。冬は、もう遠い世界へ旅立っていた。そして、北に向かう雲たちの上には、昨夜の雨で洗われた春の青空が、雲たちの戦いを見守るかの様に、現れていた。恵一は、その青空を見て、神が、その青空から、雲たちを祝福している様な錯覚を覚えた。その祝福を風は、地上の存在たちに告げてゐた。

恵一は、再び歩き始めた。しばらく歩くと、道は、その桜のトンネルを抜けた。桜は、まだ咲き始めたばかりであった。だが、もう数日で満開に成るに違い無い、と恵一は思った。

                  4

 それから、数日が流れた。桜は、日ごとに花を開かせ、街は、その桜に包まれ、いつもの年と同じ様に春を迎えた。恵一は、毎日、日曜日に歩いた桜並木の下を歩き、頭上の桜が、一日ごとに満開に近ずくのを確かめた。そして、その静かな道の上に散った桜の花びらを踏んで、春の訪れを感じた。その間、道は、日毎、花びらに覆われ、木漏れ日が、その花びらと、道の上で戯れていた。恵一は、毎朝、その桜並木の下を歩き、仕事に出掛けた。そして、仕事が終はると、春の夕暮れの中、再びその桜並木の下を歩いて、家へと戻った。並木の古桜たちは、恵一がそうしてその下を通る度に頭上でささやき、音も無く、花びらを落として恵一を祝福した。桜の花びらは、それらの古桜の枝から落ちると、宙を回りながら、音も無く、遊ぶ様に恵一の周りを舞い、そして、地に落ちるのであった。或る日の夕方、恵一は、もう満開に成ったその桜並木の下を歩きながら、ふと、頭上を見上げた。見ると、頭上の桜の枝と花の間に、三日月が、その白い姿を浮かべて、桜ごしに、恵一を見下ろしているのであった。恵一は、立ち止まり、そこで、桜の花の間に浮かぶその三日月を見上げた。すると、微風が吹き、満開の白い花に装われた桜の枝は、その白い三日月を囲みながら、音も無く、静かに揺れた。そして、その揺れは、恵一の頭上から桜の梢の別の場所へと、静かに波打ち、頭上の枝の何処かへと移動して行った。それは、日曜日の朝に吹いた、あの嵐の様な風ではなく、優しい、ささやく様な、春の夜の微風であった。その微風に頭上の桜は揺れ、その花の中に浮かんだ三日月が、藍色の夕空から恵一を見下ろしているのであった。見ると、その藍色の夕空の一か所に、白く輝く、宵の明星が有った。その明星は、三日月のすぐ横で、白い光を放ち、月と伴に、いつまでもそこに在るかの様に思われた。 恵一は、桜の上に広がる、その夕暮れの空に心を寄せた。そして、不意に、遠い子供の頃、自分が、今と同じ様に、家路に、こうして満開の桜の下で、夕空に浮かぶ三日月を見上げた事が有った事を思い出した。それは、彼がもうずっと忘れていた記憶であったが、その遠い日の記憶が、その時、不意に、大人と成った彼の心に甦ったのである。恵一は、驚き、そして、不思議な幸福感を覚えた。自分の中で、忘却され、 失われかけていた美しい記憶が、不意に生き返ったからである。心の中の美しい思い出が不意に甦る時、人は幸福を覚える。それが、今、恵一にも起きたのである。その甘美な感情を味わいながら、恵一は、一瞬、その遠い子供の子供の日の春の夕暮れから、今この瞬間までの時間が、実は、永い夢であったのではないか?と思った。その永い時間、自分は、夢を見て居たのだ、と思ってみたのである。しかし、それは、矢張り、空しい試みであった。恵一の心には、その遠い子供の日から、今日までの様々の記憶が去来した。彼は、その遠い日の夕方から、今日までの時間は、矢張り有ったと確信した。そして、その場でもう一度、桜の枝の間の夕空とそこに浮かぶ三日月を見上げて、その遠い日の夕暮れと今の間の時間を回想した。恵一は、その永い時間を経て、あの遠い子供の日に見た三日月が、今再び自分の上に現れ、あの日と同じ様に自分を見下ろしている事に、不思議な感情を抱いた。それは、まるで、自分が宇宙に見守られていた事を不意に思ひ出させられた様な、静かな、深い、不思議な幸福感であった。その不思議な幸福感は、恵一が、子供を失った日から、永く忘れていたものであった。

                           

                   5

 その夜、恵一は、家で仕事をした。彼は、職場から家に持ち帰った書類を完成させるのに一時間ほど時間を費やし、それを完成した。それから、彼は新聞を読み、テレビのニュースを見たが、その日のニュースに、彼が特別関心を惹かれる事柄は、何も無かった。彼は、世界で起きる様々な事柄を静かに聞き、何も言わずに時間を過ごした。
外では、風が再び吹き始めていた。それは、日曜日に吹いた嵐の様な風ではなかったが、それでも、ガラス戸の向こう側で、木々がその風に揺れ、その木々の上を、雲が流れる夜空の光景を想像させるに十分な風の音であった。その風の音を聴いて、恵一は、不意に、昔読んだ本の一節を思い出した。そして、居間の椅子を立つと、隣りの部屋に行って、その部屋の本棚から、一冊の古い本を取り出した。彼は、そして、その本を手に、再び居間に戻って来た。その時、彼の妻が、声を掛けた。
「お茶飲む?」
「ああ、飲む。」と恵一は答えた。妻はやかんを火にかけ、紅茶を入れる用意を始めた。そして、「テレビ切っていい?」と尋ねたので、恵一は、「いいよ。」と答えた。妻はテレビを切った。すると、部屋の中は静まり返り、外を吹く風の音が、二人の耳にはっきりと聞こえる様に成った。
彼らが住むこのマンションは、木々に囲まれた静かな場所に在るので、元々、夜は静かであった。その静けさの中で、風の音と、やかんの音だけが聞こえていた。恵一は、その外から聞こえる風の音とやかんの音の中で、かつて何度も読んだ、その本を黙読した。
やがて、湯が沸いた。妻が紅茶を入れ、恵一は、その紅茶をすすった。すると、妻は恵一に尋ねた。
「何を読んでいるの?」
恵一は、目を上げた。そして、妻と視線を合わせると、その問いに答えた。
「日記だよ。」
「日記?」
妻は聞き返した。
「あなたの日記?」
恵一は、首を横に振った。そして、微笑して言った。
「詩人の日記だよ。」
「詩人?」
妻は、紅茶を口にしながら、もう一度聞き返した。
恵一は、頷いた。すると、妻は、紅茶を口にしながら言った。
「読んでくれる?」
恵一は、妻の顔を見つめた。そして、自分も紅茶を口にしながら、
「いいよ。」と答えた。
「百年以上前の日記だよ。」
恵一は、そう言って、その本の一節を静かな声で読み始めた。

「夜更けぬ。」

恵一は、言葉を切った。

「風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう。降雪火影にきらめきて舞ふ。」

妻は、何も言わずに聞いて居た。

「ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」

ガラス戸の外で、風が鳴って居た。

                    6

 恵一は、続きを読んだ。

「今朝大雪、葡萄棚(ぶどうだな)堕ちぬ。」

外で、風が大きな音を立てた。

「夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ。ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒(よさむ)の木枯しなるかな。雪どけの滴声軒をめぐる。」

妻は、何も言わなかった。しかし、恵一は、妻が、これを聞きながら、遠い昔の冬の終わりを思い描いている、と思った。

「梅咲きぬ。月ようやく美なり。・・・・・三月十三日、夜十二時、月傾き風急に、雲わき、林鳴る。・・・・・同二十一日、夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁(のが)れし。」

妻は紅茶をすすっていた。恵一は、読むのをやめて、その妻の様子を見た。
すると、妻は、静かな声で尋ねた。
「誰の日記なの?」
恵一は、妻を見つめて答えた。
「独歩だよ。」
「独歩?」
「国木田独歩さ。『武蔵野』の一節だよ。」
妻は何も言わなかった。
「明治時代の東京だよ。渋谷の辺りさ。明治時代には、こんな場所だったんだよ。」恵一は、本の間に指をはさんだまま語った。
「国木田独歩が、或る年の秋から翌年の春まで、当時は林しか無かった渋谷に住んだ時の日記だよ。これは、冬が終わって、春が近ずいて来る頃の日記さ。明治29年だから、1896年か。」妻は、恵一の言葉を聞いて居た。そして、しばらく考え込むと、言った。
「日本語ってきれいね。」
恵一は、微笑んだ。
「でも、その日記は、何だか寂しいわ。」妻は、何か、考え事をする様に眼をぶった。
「世界から誰も居なくなって、その誰も居ない世界に一人で生きているみたい。
とても寂しいわ。」
恵一は、下を向いて、答えを探した。そして、答える代わりに、何も言はずに、その本の別の一節を読んだ。

「今日は終日霧たちこめて野や林や永久(とこしえ)の夢に入らんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨(しぐれ)にしめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなリ。」

恵一は、そこで本を閉じた。彼は、そして、静かに言った。
「林に出かけて、耳を澄ましながら座っていると、足元で、犬が眠っているな
んて、最高の幸福だと僕は思うな。」
妻は、何も言わずに、何かを考えていた。そして、恵一に尋ねた。
「この人は、でも、何故、そんな寂しい所で暮らしたの?」
「失恋したからだよ。」
「失恋?」
「不幸な結婚をしたんだ。」
妻は、意外な答えを聞いた様だった。
「失恋したのに、そんな暮らしをしたら、もっと寂しかったんじゃないかしら。」
恵一は、微笑んだ。
「ずっと、そう言う生活をしたのね?」
「ずっとじゃないよ。その年の秋から翌年の春までだよ。」
妻は、その答えに反応した。
「じゃ、やっぱり寂しかったんでしょう?」
恵一は、何も言わなかった。
「どんなに自然が美しくても、やっぱり、寂しかったのよ。」妻のその言葉は、寂しげだった。恵一は、答えを見つけられなかった。妻は、眼をつぶって、又、何か考える様な表情をした。その表情は美しかったが、それは、何かを考えていると言うより、何かに耳を澄ましている様な様子であった。風の音を聞いて居るのだろうか?と恵一は思った。

                   7

 「真一は・・」と妻が言った。妻は、息子の名前を口にしたのだった。
「風の音を怖がった事が有ったわ。」妻はそう言って目をつぶった。恵一は、妻のその表情を見つめた。
「三つの時だったかしら。一晩中風が吹いて、物凄い音が聞こえた夜、怖がって寝付かなかったのよ。私が横に寝て、ようやく寝たけど、子供には、風の音が怖かったのね。」
妻が回想している光景は、ほんの数年前の物である筈だった。しかし、妻のその表情は、まるで、遠い昔の出来事を思い出している様な表情であった。
「桜が咲いた頃だったわ。」と妻は言った。
「だから、頂度、今頃だったのね。」
恵一は、妻のその言葉を聞いて、確かに、そんな事が有った様な気がした。そして、三歳だった頃の息子が、妻の横で風の音を怖がっている様子を記憶と想像の入り混じった光景として、自分の脳裏に浮かべようとした。その光景は、確かに、彼の記憶の片隅にも、残されていたのである。
「有ったね。そんな事が。」恵一は、独り言を言う様に言った。そして、妻の心の中に在る情景が、自分の心の中にも在る事に、ほのかな甘さと悲しさを感じずに居られなかった。
「毎年・・」と妻は言った。
「桜が咲くと風が吹くのね。まるで、意地悪をしに吹くみたい。」妻は、淡々としてそう言った。
「そうだね。」と恵一は言った。妻の言葉は、不意に思い出した息子の事をそれ以上話すまいとしている様であった。恵一は、そう感じて、死んだ息子の事を語ろうとする事をやめた。その代わりに、恵一は、外を吹く風の音に耳を澄ませ、外の様子を想像した。外では、日曜日ほどではないものの、風が鳴って居た。風は、夜の闇の中を徘徊し、満開と成った桜の梢を揺らしていたが、その風の音は、恵一に、桜がもうすぐ散り始める事を予感させる物であった。それは、魔物の声の様であった。その風の音を聴いて、恵一は、ふと、あの「魔王」と言う歌曲の事を思い出した。夜の闇の中、父が、男の子と馬に乗って何処かに向かっている。すると、馬の上で、男の子は、父に、その闇の中に恐ろしい形相をした魔王が居ると言う。しかし、父は、あれは木が風に揺れているだけだよと息子に言う。息子は、怖いよ、お父さん、魔王が僕を連れて行こうとしている、と言う。しかし、父には魔王が見えない。・・・そして、走り続けた後、父が馬を止めると、息子は死んで居る・・・。風の音を聴きながら、恵一は、ふと、シューベルトのあの恐ろしい歌曲を思ひ出したのだった。

                   8

 恵一がそんな事を思い巡らしていた時、不意に妻が尋ねた。
「日曜日どうするの?」
恵一は、一瞬戸惑った。妻は、恵一の顔を見つめて居た。
「真一のお誕生日。午後はどうするの?」
恵一は、妻の問いの意味を理解した。
「午後だね?」
「そう。」
恵一は、少し考えたが、答えが浮かばなかった。その日は、死んだ息子の誕生日であった。それで、恵一と妻は、日曜日は、朝から息子の墓を訪
れる予定だったのである。だが、墓参りの後、どうするかは決めて居なかった。それを妻は尋ねたのであった。
「別に予定は無いよ。」恵一はそう言って、妻を見た。妻は少し考え込む様な顔をして、それから言った。
「そう。じゃ、お墓に行った後、ちょっと母の所に行って来たいのだけれど、いいかしら?」
「もちろんいいよ。おかあさん、お体の方はどうなのかな?」
「最近は少しいいみたい。電話では元気そうだったけど。」
「そう。それならいいけど。」そう言って、恵一は、紅茶を飲み干した。妻は、立ち上がり、やかんに再び火をつけようとした。
「お茶飲む?」
「いやいい。」
恵一がそう言うと、妻は、火をつけるのをやめようとした。が、「私は飲むわ。」と言うと、火をつけ、再び椅子に座った。妻は、そして、何も言はずに腕を組み、しばらく考え込む様な顔をしていた。外では、風の音が続いていたが、妻は、その音には注意を払わない様に見えた。恵一は、妻のその表情をさりげなく見ながら、死んだ息子が、生きていれば日曜日に八歳に成る筈だった事を不意に意識した。そして、そうしたら、自分達は、今度の日曜日をどの様にして送っただろうか、等と考えたが、それはつらい事だった。恵一は、それから、息子が小さかった頃の誕生日の事を思ひ出そうとしたが、それは、更につらい事だった。恵一は、その様に、自分の心の中に浮かぶ息子の事柄を、もちろん、口にはしなかった。そして、ただ沈黙するだけだったが、そうした沈黙は、裏を返せば、彼の心象を映し出す鏡に他成らなかった。恵一は、そうした空想をやめて、妻を見た。妻は無言であった。そして、やかんの湯が沸騰するのをただ待っている様に見えた。しかし、その時、恵一の心には、不意に、今、妻の心にも同じ空想が、そして、同じ思い出が浮かんでいたのではないか?と言う想像が浮かんだのであった。妻の心にも、今、自分の心に浮かんだのと同じ様に、息子が生きていたら、今度の誕生日には何をしただろうか、と言う想像が浮かんでいたのではないだろうか?或いは、息子が小さかった頃、一緒に祝った誕生日の光景が浮かんで居たのではないか?恵一の心に、不意にそんな想像が浮かんだのであった。それを確かめる術は無かった。もちろん、妻にそれを尋ねる事は出来たが、そんな事をしようとは思はなかった。その代はりに、彼は、無言のまま、妻の表情を観察しようとした。すると、不意に妻が尋ねた。
「何を考えているの?」
恵一は、驚いた。が、その驚きを面には出さずに、彼は答えた。
「別に。」そう言って、彼は、妻を見つめた。
「そう。」と妻は言った。恵一は、妻の次の言葉が何であるかと想像した。
が、妻は、何も言わなかった。そして、やかんが音を立て始めた時、妻は、ようやく言葉を発した。
「日曜日、お天気どう成るかしらね。」
「そうだね。」と恵一は言った。
「天気予報では、晴れたり曇ったりと言っていたけど。」
そう言って、妻は、髪に手を触れた。それから、妻は頬ずえをついて横を向き、ガラス戸の向こうに目をやった。そこには、夜の闇が在るばかりである。
そして、その闇の中を、風が、なおも吹き続けていた。妻が、その外を見つめるので、恵一もそちらを見た。すると、そこに、風に揺れる木が、街灯の白い光に浮かんで揺れる光景が見られた。が、恵一は、すぐにその光景から目をそらした。そして、「お湯が沸いたよ。」と小さな声で言った。

                            

                   9

 日曜日がやって来た。前日の夜、恵一は、その日の天気を気に掛け、先週の日曜日の様な風が吹くのでは、と心配した。しかし、その日は朝から晴れ渡り、風も穏やかだった。風は、吹いては居たが、前の日曜日の様な強い風ではなく、春らしい、穏やかな朝に、その日出掛けようとする二人は恵まれたのであった。
 恵一と妻は、共に早起きをし、予定通り、息子の墓へと出掛けた。二人は、前の日に、自宅のオーヴンで焼いたケーキを持って墓地を訪れ、先ず、一通り息子に水を遣り、白い菊の花で墓を囲んで合掌すると、その真新しい墓石の前に、そのケーキを置いた。ケーキの上には、ロウソクが八本立てられて居たが、恵一が、そのロウソクに火を付けようとすると、大人しかった風が悪戯をして、その火を消そうとした。
「意地悪ね。」と妻が言った。
「そうだね。」と言って、恵一は、微笑した。
墓の周りでは、風が運んで来た桜の花びらが、地面の上で踊っていた。それは、墓地に植えられた桜が散って、風に運ばれて来た桜の花びらだった。それらの白い花びらたちは、まるで、彼らの息子の誕生日に招かれて、二人の周りに集まって来た無邪気な妖精たちの様に思われた。その妖精たちの中で、二人は、あらかじめ約束した通り、静かにハッピバースデーを口ずさんだが、矢張り、最後まで歌う事は出来無かった。
「泣かないって、言う約束だったのにね。」と妻が言った。
恵一は何かを言おうとしたが、言葉に成らなかった。
「ごめんね。」と妻が息子に言った。
「お誕生日なのに。」妻は、それ以上言葉を続けられなかった。
 二人がそうする間にも、風は、ケーキのロウソクの炎を消そうとした。だが、恵一は、両腕でその炎を風から守り、風は、やがて、その悪戯を諦め、何処かへ去って行った。恵一は、それを確かめ、両腕を広げた。
「じゃあ、消そうね。」と恵一は、言った。
妻は無言で頷いた。恵一は、妻と一緒に、ケーキの上の八本のロウソクの炎を息子の代わりに、ふっと一息で吹いて消した。すると、それを祝う様に、二人の足元で、桜の花びら達が、又踊った。二人は、それから、墓石の前でもう一度両手を合わせた。そして、じっと目を閉じて、遠い世界に居る二人の息子に、誕生日おめでとう、と心の中で語り掛けた。やがて、二人は静かに目を開けたが、真っ直ぐに息子の墓石を見つめたまま、お互いの顔を見ようとはしなかった。そして、お互いに語り掛けようともしなかった。

 永い沈黙が流れた。二人は何も言わず、墓石の前に立ち続けた。そして、春の風が、今日は静かに、二人が息子の誕生日を祝うのを邪魔しない様、そっと通り過ぎた時、自分達の足元で、又、桜の花びらが踊った事にも、二人は、気が付かなかった。

                  10

 墓参りを終えると、妻は、自分の母親の家へと向かった。二人は、夕食を共にする事とし、恵一は、電車で、先に、マンションの自宅へ向かった。天気は良かったが、別段予定は無く、何処かに行く気もしなかったので、恵一は、妻と別行動を取る事に成ったその日の午後を、自宅近辺を散策して過ごす積もりであった。
 自宅に向かう電車には、空席が有った。だが、恵一は座ろうとせず、その空いた電車の中で、恵一は、ドアの横に立ち、ドアのガラス越しに流れる外の世界をぼんやりと見つめ続けた。空は晴れている。その処々に白い雲が浮かび、それそれに何処かへ行こうとしている。恵一には、その雲たちが、幸福で自由そうに見えた。そして、その春空の下の風景のあちらこちらに、満開の桜が、たびたび現われ、電車が向かう方向と逆の方向に向かって、次々に流れ去って行くのを、恵一は、ぼんやりと眺め続けた。電車が、急行の待ち合わせで、長く止まった時、恵一は、電車の中を一瞥した。恵一のすぐ横には、矢張り、墓参りの帰りらしい初老の女性が座って眠り込んでゐた。そして、その女性客の向かいには、ラケットを持った女子高校生が二人座っていた。二人は何か話し込んでいたが、恵一には、その会話の内容は聞き取れなかった。又、少し離れた座席には、四、五歳の女の子とその両親らしい夫婦が、少し疲れた表情で座り、急行が向かいのホームに来るのを待ち続けていた。その夫婦の前には、ベビーカーが置かれ、その中で丸顔の赤ん坊がすやすや眠っていたが、女の子は、その赤ん坊の寝顔を覗き込み、あやす積もりなのか、その青いベビーカーを静かに、前後に動かし続けていた。そのベビーカーの中の赤ん坊が、女の子なのか、男の子なのか、を恵一は考えた。身に付けている物の色が白なので、どちらなのか判らなかったのである。しかし、話し込んでいる夫婦に、女の子が「あやちゃん寝てるよ。」と言ったので、恵一は、その赤ん坊が、女の子である事を知った。すると、ホームの向こう側に急行が到着した。その音に、恵一の横の座席で眠っていた女性が目を開け、あわてて、立ち上がった。そして、ベビーカーの赤ん坊を連れた両親も立ち上がり、母親が、「行くわよ」と言ひ、一家は、ホームへと向かった。他にも、多くの乗客が、向かいにやって来た急行に乗り換えようとして、電車からホームに向かったが、中には、恵一の電車に残る乗客も居た。恵一から離れた場所で本を読んでいる背の高い男性や、赤ん坊を抱いた若い母親などがそうだったが、恵一は、それらの人々を見守りながら、それらの人々が何処に行くのだろうか?などと取りとめの無い事を空想した。そして、ホームの向かいにやって来た急行に乗るよりも、その空いた電車に乗ったまま、そんな空想を続け、ゆっくりと、そのドアの横で、外の風景を見続けたい、と、恵一は、思ふのだった。

                           

                  11

 恵一が自宅に着いた時、時計は、午後二時を回っていた。洋服を着替えると、恵一は、予定して居た通り、自宅の周囲を散策する事にし、誰も居ない部屋を後にして、外に出た。その際、恵一は、今日は少し寒いと思ったので、何を着ようかと迷った挙句、一番薄いコートを着て外を歩く事にした。
 外は、さっきより少し風が強く成って居た。その風は、先週吹いた嵐の様な風ではなかったが、その風が、町中の桜を揺らし、散らそうとしている事は、明らかな様に思われた。恵一は、外に出ると、先ず、いつもの様に、桜並木の道を東に向かって歩き始めた。桜並木は満開で、その上、今日が日曜日である為に、いつもより、明らかに人通りが多かった。そして、そこでは、道行く人々の足元で、桜の花びらが風に吹かれて踊り、人々と共に、春を祝っているかの様に思われた。恵一は、その道を歩きながら、自分の足元で風に踊る、それらの桜の花びらに目を落とした。花びらは、風が吹く度に、地面を駆け巡り、恵一の足元を離れ、そして、又戻って来た。そのあわただしい動きは、悪戯な妖精の様であったが、風は、その妖精達を、もうすぐ、何処か遠くに連れて行くに違い無かった。恵一は、そうして桜並木を一人で歩き、やがて、並木道の終わりに来た。そこで恵一は、いつもの様に立ち止まり、頭上に広がる桜の枝を見上げた。彼の頭上は、満開の桜で覆われていたが、その満開の桜の梢は、そこで、絶えず風に揺れ、その間から、青空が断片と成って、地上にこぼれ落ちようとしているのであった。その満開の桜が風に揺れ、花びらを散らす時、恵一は、それらの花びらが、その桜の枝からではなく、その枝の上に広がる青空から舞い降りて来る様な錯覚を抱かずには居られなかった。そして恵一は、その空から舞い降る桜の花びらを見守りながら、今年も、桜に別れを告げる時が来た事を知ったのであった。

                   12

 恵一は、道を曲がった。彼は、桜並木が終わるその四つ辻を
右に曲がり、南に向かって歩いた。その道は、人気(ひとけ)の少ない、静かな道で、その道を歩くと、恵一は、南風と春の太陽を正面から感じた。そして、その道をしばらく歩くと、彼は、別の四つ辻に辿り着き、そこを右に曲がった。
 恵一は、そうして、その静かな道を西に向かって歩き、地図の上で長方形を描いて、自宅に戻ろうとして居るのであった。それは、恵一のいつもの散歩道であった。恵一は、その道を、ほとんど何も考えず、ただ風の音を聞きながら、道の上で揺れる木々の影と、その上で踊る桜の花びらを見ながら、無心に歩き続けたのであった。やがて、恵一の行く手に踏み切りが現れた。そこで、その踏み切りを渡らず、右に曲がるのが、彼のいつもの散歩道である。そして、踏み切りの前を右に曲がり、数分も歩けば、もう、彼のマンションである。そこには、別の桜並木が有った。そして、彼のマンションの前には、行きつけのコーヒー店が有る。その店でコーヒーを飲もうと、恵一は、考えて居た。だが、風の音を聞きながらここまで歩いて来た彼は、踏み切りの前で立ち止まった。彼は、この日に限って、そこで、いつもの様に、踏み切りの前を右に曲がり、自分のマンションの方向に歩くべきかを迷ったのであった。
 恵一は、目の前の踏み切りを見つめた。今、その踏み切りは、開いている。今なら、ここを渡る事が出来る、と恵一は思った。すると、いや、やめよう、と、もう一人の彼が、心の中で言った。あの店でコーヒーを飲んで、それから、マンションに帰ろう、とその声は言った。が、恵一は、決心が着かなかった。あそこに行くべきか、いや、やめよう、と心の中で迷いながら、恵一は、決心が着かなかった。
 そうする内に、踏み切りの警報機が、カンカンとやかましく鳴り始めた。赤いランプが点灯し、黒と黄色の遮断機が、ゆっくりと、恵一を線路の向こうの世界と隔て始めたのだった。「さあ、右に行こう」と一人の恵一が言った。が、心の中に聞こえるその自分の声を聞きながら、恵一は、なおも決心が着かず、踏み切りの前に立ち続けたのであった。


                           
                   13

 恵一は、その場で立ち尽くした。そして、いつの間にか、踏み切りの遮断機の側に立ち、そのままそこで、電車の通過を待って居たが、それは、明らかに、彼が踏み切りの向こう側に行こうとして居るからに他成らなかった。
 やがて、彼の左手から、電車が大きな音を立てて現れ、速度を落としながら、恵一の目の前の踏み切りを通過した。電車は、そうして減速しながら、右手に見える駅に構内に入り、そこで停車しようとして居るのであった。そうして、電車が、減速しながら、目の前を過ぎると、警報機の音は止み、黒と黄の遮断機がゆっくりと上に上がった。すると、線路の向こうで遮断機が上がるのを待っていた数人の歩行者が、こちらに向かって歩き始め、それに釣られて、恵一は、なかば無意識にその踏み切りを渡り、線路の向こう側へと歩き始めて居たのであった。それは、まるで、恵一が自分の意志で歩き出したのではなく、線路の向こうに住む精霊が、彼をそちらに招いたかの様であった。その精霊は、この踏み切りで、恵一を待ち続けて居たのかも知れなかった。そして、その精霊は、踏み切りを渡らずに帰ろうとして居た恵一に、桜が咲いている内においでとささやき、恵一を踏み切りの向こうの、あの懐かしい場所に導こうとして居るに違い無かった。

                  14

 恵一は、踏み切りを渡った。そして、踏み切りの向こう側に続く道を、彼は、ゆっくりと歩き続けた。彼は、西に向かって居た。が、彼は、すぐに道を左に曲がった。そこで、彼は、正面から来る南風を顔に感じた。そして、西に傾き始めた太陽の光を体に受けながら、しばらく歩かなかったその道を南へと歩いた。そこは、車が殆ど通らない、細い静かな道だった。前にも後ろにも、人影は無く、ただ、光だけが溢れて居た。時々、前から来る風が、微かに音を立てる以外、物音は何も聞かれなかった。この静けさを、恵一は、忘れて居なかった。ほんの数年間まで、彼は、この道を何度も歩いて居たからである。その道を歩きながら、恵一は、自分が、急に、思い出の中に迷い込んだ様な錯覚を抱かないでは居られなかった。両側の家々も、木立ちも、恵一が記憶して居る通りであった。そして、何よりも、その静寂さが、彼が記憶するその道の思い出その物だったのである。その静かな道を、恵一は、誰にもすれ違はずに、一人歩き続けたのだった。
 やがて、恵一は、目的の場所に近ずいた。その場所は、恵一の行く手の右側に在る小さな公園である。そこを訪れる為に、彼は、こうして、この道を歩いて来たのであった。そして、その公園の前に来た時、恵一は、想像して居た通り、その人気(ひとけ)の無い公園で、桜の木々が、満開の花に包まれて居るのを目にしたのであった。その光景を見た時、恵一は、それらの満開の桜が、ここで自分を待って居たのだ、と思わずには居られなかった。

                   15

 公園の入り口で、恵一は、立ち止まった。彼の目の前には、桜の花びらに埋もれた公園の地面が有った。そして、その一面の花びらの上で、木漏れ日が静かに踊る光景を、恵一は、その場に立ち止まったまま、見つめ続けたのだった。そこには、砂場が有った。そして、低い鉄棒が有り、運艇(うんてい)が有った。全ては、彼が記憶して居る通りだった。ここに、彼は、しばしば、息子を連れて来た。そして、桜が満開の時、この一面の花の上を、彼の息子は、走り回ったのだった。

                   16

 恵一は、その公園に足を踏み入れた。公園には、誰も居なかった。そして、その誰も居ない公園で、桜は満開と成り、今、散ろうとして居るのだった。どうして、誰もここに居ないのか?と恵一は思った。その彼の足元で、白い桜の花びらが、地面を踊り、そこに足を踏み入れた恵一を迎えてゐた。




                  17

 恵一は、その場で、辺りを見まわした。見ると、砂場の向こうに在る水飲み場の水道の蛇口から、少しだが、水が出ている事に恵一は、気が付いた。
 恵一は、その水を止めようと思った。そして、その見覚えの有る水飲み場に近寄った。彼は、手で水道の蛇口を回して水を止めたが、その蛇口は、思ひの他、固かった。彼は、その時、その水道の蛇口が固い事を思い出し、その蛇口の手応えが変はって居ない事に驚いた。そして、その蛇口の上の水飲み口を見て、息子が、それを噴水の様にしてはしゃいだ事を思い出した。
 その銀色の水飲み口が、木漏れ日に反射して輝く様子も、彼が記憶して居る通りであった。何も変はっていない、と彼は思った。

                 18

 今、そこに、彼の息子の姿は無かった。だが、恵一は、その水飲み場で、悲しみを感じては居なかった。彼は、ただ、そこに在る全てが懐かしいのだった。恵一は、そこで目に入る物が、何一つ変はっていない事に感動し、彼の息子がこの世を去ってから、一度も味わった事の無い喜びで、心が一杯に成ったのだった。


                   
                 19

 今、そこに、彼の息子の姿は無かった。だが、恵一は、その水飲み場で、悲しみを感じては居なかった。彼は、ただ、そこに在る全てが懐かしいのだった。恵一は、そこで目に入る物が、何一つ変はっていない事に感嘆し、彼の息子がこの世を去ってから、一度も味わった事の無い喜びで、心が一杯に成って居たのだった。

                 20

 それは、不思議な感情であった。恵一は、自分の心の中に湧き上がるその甘美な感情に驚かずには居られなかった。
恵一は、息子が死んでから、この公園に足を踏み入れた事は無かった。それは、言ふまでも無く、この公園には、息子の思い出が溢れていたからだった。彼の目の前に在るこの水道にも、鉄棒にも、運梯にも、そして、この公園に咲く桜にも、
死んだ息子の思い出が満ちていた。その事を記憶して居るが故に、息子が死んだ後、恵一は、一度もこの公園に足を向けようとしなかったのだった。恵一は、ここで自分を待つ物は、ただ、悲しみだけだと思っていたのである。
 ところが、今ここに来て、恵一は、悲しみではない、甘美な感情が、自分を待って居た事を知ったのであった。彼は、この水飲み場や、鉄棒や、運梯に再会した喜びで心が一杯と成り、もうここを離れたくないと言う気持ちすら感じ始めて居たのであった。そして、ここに在る全ての物が、そのままである事を確かめ、それらの物に触りたいと言う気持ちを、彼は、もう、どうにも押さえられなく成って居たのだった。
 彼は、この公園の桜が、自分をここに連れて来たのだ、と思った。

                  21

 恵一は、頭上を見上げた。彼の上には、桜の枝が、空を満開の花で蔽ふ様に広がってゐた。その頭上の桜の枝から、白い花が次々に舞い降りるのを、恵一は、その思い出に満ちた水飲み場で、一人、地上に迎えた。桜は、絶えず散り続け、いつまでも散りやまないかの様だった。恵一は、それらの桜の花びらが、天国から舞い降りて来る様な錯覚を覚えた。そして、恵一は、桜の枝の間から見える春の青空に、夕方の気配が漂い始めてゐる事に気付いた。花びらたちは、その夕方の気配が漂い始めた青空の何処かから舞い降り、地上に舞い降りるかの様だった。
 桜の花は、そうして、宙を舞い降り、音も無く、この公園の土の上に落ちるのだった。そして、それらの花たちは、地面に落ちると、すぐに、そこで花たちを待つ風と、公園の黒い土の上で踊り始めるのだった。

                  22

 地面に降りた花びらたちは、そこで、花たちの祭りをしてゐるのだった。そして、その祭りは、今日が最後の日なのだった。

                  23

 恵一は、自分の足元で踊る、それらの桜の花たちを見つめた。そして、自分が、その花たちの祭りの只中にゐる事を知ったのだった。


                  24

 恵一は、その祭りが、いつまでも、終わらずに続く事を願った。そして、その祭りの中に、いつまでも居たいと思うのだった。

                 25

 恵一は、その場を離れた。彼は、その水飲み場を離れて、公園の奥へと向かった。公園の奥には、彼にとって、懐かしい場所が、他にも有るのだった。彼は、そこに行って、花たちの祭りの終わりを見届けようと思ったのだった。

                  26

 恵一は、水飲み場を囲む植木の向こう側に、或る場所が有る事を知ってゐた。彼は、そこに足を向けた。そして、そこに足を踏み入れた時、彼は、目の前の光景に、心が一杯に成る事をどうする事も出来無かった。そこは、ブランコと砂場が有る、桜の木陰だった。今、そこに人影は無く、恵一の目には、ただ、風が、木漏れ日の中で、そのブランコを静かに揺らして
ゐる光景が入って来ただけだった。だが、ただ風に揺れるブランコだけが有るその桜の木陰の光景が、恵一の心を、切なく成るまでに揺さぶったのだった。


                  27

 その二つのブランコは、恵一の目の前で、静かに揺れてゐた。恵一は、その緑色のブランコを良く覚えてゐた。そして、風に揺れる、そのブランコの銀色の鎖も覚えてゐた。そのブランコの光景は、恵一の記憶の中に在るこの場所の光景と、何も変はらない光景だった。その光景を見て、恵一は、自分は、ずっと、ここに居たのではないか?と思った。全ては、夢だったのではないか?自分は、ここで長い夢を見て居たのではなかったのか?と、恵一は、思ったのだった。
 恵一は、そうでない事を知って居た。それは、もちろん、一瞬の錯覚であった。だが、恵一は、自分を襲ったその錯覚を、ほんの短い間だけ、信じようと決めたのだった。

                  28

 恵一の目の前に、恵一の息子は、居なかった。だが、恵一は、息子は、何処かに居るのだと、信じようとした。今、世界は、桜に包まれて居る。その美しい世界の何処かに、自分の息子は居て、遊んで居るのだと、恵一は、自分で、自分に言って、聞かせたのだった。
 息子は、ただ、今、何処かに姿を消して居るだけなのだ。この公園の何処かで、或いは、この桜が満開に成った世界の何処かで、自分が家に連れて帰るまでのほんの短い間、一人で遊んで居るだけなのだ、と、自分に聞かせ、恵一は、その古びたブランコの前に、歩み出たのだった。

                 29

 ブランコは、かすかに揺れてゐた。その二つのブランコは、仲良く並んだまま、そこを通りすぎる春の風に、本当に、微かに揺れてゐるのだった。恵一には、それが、見えない精霊が、並んで、ささやき合ふ姿の様に思えた。


                 30

 恵一は、その見えない精霊たちを見つめ続けた。そして、その場を通り過ぎる春の風の音に耳を澄ました。風は、恵一に、「遊びに行こうよ。」と言ってゐる様だった。

                  31

 恵一は、その風に誘われた様に、左手の方向に足を向けた。すると、彼は、すぐ、その公園の小さな砂場と、その砂場を囲む場所に導かれ、そこで足を止めた。もう、そこより先の場所は無かった。そこは、植え込みで囲まれ、桜の木々が影を落とす、その公園の最も奥まった、袋小路の様な場所なのだった。そこには、木の枠で囲まれた砂場と、その砂場の前の、古びた、緑のベンチが有るだけだった。
 そして、その砂場とその砂場の周りの地面は、桜の木々の木陰と成って、夕方の木漏れ日が、風と遊ぶ場と成ってゐるのだった。
 恵一は、その光景の前に立ち尽くした。そして、「これで終はりだ。」と、自分につぶやいたのだった。

                  32

 「これで終わりだ。」恵一は、その言葉をもう一度口にした。恵一は、桜と別れる時が来た事を知ったのだった。
                          

                   33

 目の前の砂場と地面は、風に散った桜の花びらに埋め尽くされてゐた。そこは、今、世界で一番美しい場所であった。


                
                  34

 恵一は、その、世界で一番美しい場所に足を踏み入れた。そして、その砂場の前で立ち止まると、自分の前の砂の上で舞う、桜の花びらたちの動きに目を落としたのだった。
 花たちは、そこで、今年最後の群舞を踊ってゐた。そして、恵一に、今年の別れを告げてゐるのだった。

                  35

 恵一は、自分がここに来なかった事を悔やんだ。そして、何故、自分は、もっと早く、ここに来なかったのか、と思った。だが、彼がそう悔やむ間にも、桜は、散り、風に舞い続けるのだった。「これで終わりだ。」と、恵一は、もう一度、心の中でつぶやいた。

                   36

 恵一は、一旦、砂場の前で止めたその足を踏み出し、砂場の周りを歩き始めた。そうする事で、彼は、風に地を舞ふ花びらたちと一緒に成って、地面の上をいつまでもさ迷い続けようとしてゐるかの様だった。彼は、あちらに歩き、こちらに歩いた。そして、そうして歩く自分の足元を絶えず見つめて、白い花びらたちが何処に行こうとするのかを追った。だが、花たちは、何処へ行こうとしてゐるのでもなかった。桜の花びらたちは、この砂場の周りを、渦(うず)を巻きながら、ただ、あちらへ行き、こちらへ行くのを繰り返してゐるだけなのだった。それは、子供が、大勢集まって、鬼ごっこをしてゐるのと同じであった。そして、恵一は、知らぬ間に、その鬼ごっこの鬼を、そこで演じてゐるのだった。

                   37


 日は、傾き始めてゐた。頭上の桜の梢から注ぐ光は、既に、夕方の気配を帯び始めてゐた。その夕方の光の中で、恵一は、そうして、土の上で踊る桜の花びらを追い続けた。
 花びらと共に、木々の影が、地面の上を揺れ動いた。そして、恵一の影も、それに加わった。影たちは、鬼に成った恵一から逃げる様に、地面を動き、それでゐて、恵一から離れようとはしないのだった。花びらと影たちは、そうして、いつまでも、その公園の土の上で、恵一から逃げ続ける様に思はれた。

                   38

 不意に、風が、止まった。花たちは、逃げるのを止め、恵一の足元で、その動きを止めた。すると、公園を、一瞬の静寂が支配した。その静寂に、恵一は、夢から覚めた様な気持ちを覚えた。彼は、足を止め、そこに在る自分の影を見つめた。恵一は、その静寂に、風が、もう二度と吹かないのではないかと言ふ恐れを抱いたのだった。だが、その静寂は、すぐに破られた。風は、再び吹き始め、桜は、再び、恵一の足元で踊り始めたのだった。彼の頭上で、桜は、海鳴りの様な音を立て、一斉に、その花を散らした。散った花は、風に舞い、恵一の体を包んだ。風は、強まり、彼の足元では、桜の花たちが、竜巻の様な渦(うず)を巻いた。それは、いよいよ、祭りの最後に、花たちが舞ふ踊りではないかと思はれた。その風の只中で、恵一は、静かに目を閉じた。

                  39

 目を閉じると、桜は、永遠に咲いてゐるかの様であった。彼の周りに咲く桜は、いつまでも散らずに、ここで永遠に咲いてゐるかの様に思はれた。そして、彼が見て来た事も、味わって来た感情も、全ては、夢であったかの様に思はれるのだった。目を開ければ、そこには、自分が愛したものが有り、自分が失ったと思ったものは、実は存在し続けてゐるのではないか?と、恵一は思った。後は、目を開ければ良いのだ。そうすれば、自分の前に、自分のいとしい物が、自分が失ったと思った物が、そこに在るのではないか?恵一には、そう思えるのだった。だが、彼は、目を開ける事が出来無かった。目を開ければ、その思いが本当かどうかが、明らかに成る事が、恵一には、恐ろしいのだった。恵一は、目を閉じ続けた。そして、目を閉じたまま、春の風の音に、耳を傾け続けた。

                  40

 その時だった。その風の中で、恵一は、子供の声を聞いた。それは、息子の声だった。「お父さん」と呼ぶその声に、恵一は、思はず、目を開けた。

                 41

 だが、彼の息子は、居なかった。目を開けると、彼は、矢張り、そこに一人で立ってゐるのだった。

                 42

 見ると、彼の前に、一本の桜の枝が落ちてゐた。その枝は、春の風に折れ、その風に運ばれて来た物の様だった。


                 43

 恵一は、その枝を見つめた。すると、遠くで、子供の声が聞こえた。それは、公園の何処かで、小さな男の子が、父親を呼ぶ声であった。恵一は、今、自分が聞いたのは、その声だったのだろうか?と、思った。

                 44

 「いや、違ふ。」と、恵一は、思った。「あの声ではない。今の声は、もっと近くでした。そして、あれは、間違い無く、真一の声だった。」彼は、そう確信した。そして、もう一度、辺りを見回した。

                  45

 だが、子供は、居なかった。彼の前には、ただ、春の風が、彼の為に運んだ、桜の
花びらが有るばかりだった。


                 46

     桜は、彼の足元で、いつまでも踊り続けた。


                (終)





平成15年7月23日(水)脱稿

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16019498&comm_id=1862933


« エリーゼの為に | トップページ | 桜(『第一集・第一話』) »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/196869/6016965

この記事へのトラックバック一覧です: 『桜・第二集・第一話』:

« エリーゼの為に | トップページ | 桜(『第一集・第一話』) »