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2007年6月26日 (火)

桜(『第一集・第一話』)

数年前に私が書いた短編小説の一つを御紹介
致します。

題名は、『桜』です。

 ただし、『桜』と言ふ題名で幾つも小説を書く積もりなので、この作品には、『桜・第一集・第一話』と言ふ題が付いて居ます。


 遠い昔、日本の或る国で、無実の罪で牢に入れられた侍と領主の物語です。


平成19年4月10日(火)

散る桜を惜しみながら

          西岡昌紀

http://nishiokamasanori.cocolog-nifty.com/blog/


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(平成14年(2002年)の前書き)

はじめまして。西岡昌紀(にしおかまさのり)と
申します。

今年の桜はもう終わろうとしています。
思へば、本当に桜が早く咲き、早く散って行く年
ですが、これから、一年を通じて、桜にまつわる
短編小説を皆さんにお送り致します。桜が散るのは
仕方の無い事ですが、心の中の桜は散らないと信じます。

そんな皆さんの心の中にある桜が、いつまでも美しく
咲き続ける事をお祈りして、この短編集の開始の御挨拶と
させて頂きます。


2002年4月1日(月)


        西岡昌紀(にしおかまさのり)


桜(『第一集・第一話』)


                桜・第一集・第一話

                      1


  昔、或る国に一人の罪人が在った。罪人と言っても、真(まこと)の罪人にはあらず、無実の罪にて捕らえられた、 その国の名高い武士であった。
 七年前の桜の頃の事である。その春、その国の領主に、家臣の間に謀反(むほん)の企てが有るとの密告をした者が有った。その密告は、偽りであったが、その様な密告が為された理由は定かでない。しかし、その密告は、謀反を企てたるは、その武士であると名指しした為、領主は、武勇の誉れ高く、家臣の間に人望厚いこの武士を、花見の席で捕らへさせたのであった。
 真実を言うならば、武士は、領主の家臣の中で最も高潔な、最も信頼すべき人物であり、もちろん、謀反など企てた事は無かった。しかし、領主は猜疑心深く、人の心を知らぬ人間であった。その為、領主は、愚かにもこの偽りの密告を信じ、自らが最も信頼すべきこの武士を謀反人と信じ、捕らえさせたのであった。
 領主は、武士の妻と二人の子を捕らえさせ、城の者に斬殺させた。そして、武士自身については、武士をあえて殺さず、城下の寺の墓地に在る土牢に幽閉し、そこで、死よりもつらい苦しみを与える事としたのであった。
 こうして、武士は罪人とされ、土牢の中で生かされ続ける事と成ったのであった。領主は、こうする事で、武士が領主に自刃する事を懇願すると信じた。そして、それを懇願させ、許す事で、ただ一言の弁解もせず、泣く事もせず、無言でこの運命を受け入れたこの武士に、その時、自分が初めて勝利出来ると思ったのである。だが、罪人は、領主に自刃を請おうとはしなかった。罪人は、その土牢の中で、生き続ける事を選んだのであった。
 そうして、七年の時が流れた。その国に、再び春が訪れ、城下の所々で、今年も、桜が咲き始めて居た。

                     2


 風が鳴って居た。夜から聞こえた、その風神のうなりの様な風の音に、罪人は、春の訪れを知った。
 空気は冷たく、朝晩には、まだ冬の様な冷気が感じられる日が続いていたが、その風の音に、罪人は、土牢の外に春が来た事を知った。そして、その朝、土牢の外が白み始めると、罪
人は、土牢の前の黒い地面を見つめ、そこに、或る物が無いかと目を凝らした。それは、毎年、春の初めに、風がその土牢の前に運ぶ、春の知らせに他成らなかった。
 罪人は、それを見つけた。そして、春が訪れた事を確信した。外の世界で、又、一年の時が流れたのである。
 罪人が目を凝らして地面の上に探し、見つけた物は、白い桜の花びらであった。風で運ばれて来た幾枚かの白い花びらが、罪人が入れられた土牢の前の土の上で、風に舞って踊って居る。それを罪人は、今年も、その日の朝の光の中で見つけたのであった。土牢は、寺の墓地の外れに在り、近くに桜の木は無い。しかし、毎年、風が、遠くから、桜の花びらをこうして運んで来るのである。そして、風は、今年も、そうして、この土牢に桜を運んで来た。それは、土牢が谷間に在り、遠くで風が散らした花びらが、風の吹き溜まりであるその場所に運ばれて、いつまでもそこに留まり続けるからなのであった。風は、そうして、毎年、罪人の入れられた土牢の前に桜の花を置いて行くのである。
 その春の風の音を罪人は、毎年、牢の中で、耳を澄ませて待ち続けるのであった。そして、その風が、桜の花びらを土牢の前に運んで来るのを、牢の中で、待ち焦がれて居たのであった。


                      3


 その朝、住職は、いつもの様に、墓地の小道を一人、罪人の土牢へ と向かって居た。
 その道は、墓地の墓の間を抜ける道であったが、途中下り坂と成り、小さな梅林を抜けて、谷間に在る、この寺のより古い墓地に通ずる道であった。その道を住職は、もう七年間も通い続けて来たが、それは 住職の日課であった。
 その日の朝も、住職は、そうしてその道を土牢へと向かって居たが、 住職の頭上では、風が激しく鳴って居た。空は晴れ、青空が広がって居たが、その風は、嵐の様であった。地面の上では、木々の影が激しく動き、光と戯れながら、住職の行く道を先回りして居た。その木漏れ日の踊る道で、住職は、ふと、足を止めた。足元に、桜の白い花びらが、有ったのである。見ると、それは、一枚だけではなかった。住職が歩くその道の所々に、まだ数は少ないが、白い桜の花びらが誰かが撒いた様に落ちて居るのであった。そして、風が吹くと、それらの白い花びらが、木漏れ日の中で場所を変え、或いは変えずに土の上に留まるのを住職は見たのだった。
 それらの白い花びらを見て、住職は、何処かで桜が咲いた事を知った。この寺の鐘楼の横にも桜の古木が有るが、その桜は遅咲きで、今年も、まだ咲いては居なかった。ならば、この花びらは何処から来たのだろう?と住職は思った。この花びらは、何処か遠くから、風が運んで来たに違い無かった。恐らくは、桜の名所である近くの丘から運ばれて来た物と思われたが、もしかすると、もっと遠くの、城の堀の側の桜から運ばれて来たのかも知れなかった。それは、想像する他は無かったが、住職は、今年は、桜が咲くのが少し早い事に気が付いた。そして、木漏れ日の中で立ち止まったまま、土牢に居る罪人は、桜が 咲いた事に気が付いて居るだろうか、と思った。
 住職は、毎春、風が桜を運んで来る度に、そうして、それらの桜の 花びらが何処から来るのだろうと思うのであったが、それは、桜にし か分からぬ秘密なのであった。

                           

                     4


     土牢の前には、風が、もう随分桜の花びらを運ん
 で来てゐた。住職は、それらの、風が運んで来た桜を踏み
 ながら、木漏れ日が注ぐその土牢の前に、いつもの様に現
 れた。罪人は、住職が、そうして姿を見せる前から、遠く
 から近ずく足音に、住職の訪れに気ずいた。そして、住職
 が現れると、いつもの様に、土牢の中で正座し、訪れた住
 職に向かって深々と頭を下げたのだった。すると、住職も、
 いつもの様に静かに頭を下げた。住職は、そして、自分が
 立つ土牢の前で、足元を見回すと、牢の中の罪人に向かっ
 て、静かに声を掛けた。
 「桜が咲き始めましたな。」
 罪人は、牢の中でうなずいた。
 「今年は、いつもより早く咲き始めた様でござるな。」
  住職がそう言った時、強い風が吹いた。そして、住職
 の足元の桜が、その風に踊った。風は二人の頭上で鳴り、
 やがて、何処か遠くへ去って行った。
 その間、罪人は、静かに座ったままだった。そして、
 微かに微笑を浮かべた様だった。その姿を見て、住職は、
 ふと、六年前、この土牢の前で起きた出来事を思ひ出し
 たのだった。
  それは、この罪人が、無実の咎でこの土牢に入れられ
 て、一年目の春の事であった。その春も、桜は、いつも
 の年より早く咲いてゐた。その、いつもの年より早く桜
 が咲いた春の或る朝、領主の命令で、一年間罪人の世話
 をして来たこの住職は、その前夜、春の訪れを告げる風
 の音を一晩中聴きながら熟考した末に、ついに意を決し
 たのであった。即ち、その朝、住職は、いつもより早く
 土牢を訪れた。そして、食事を運ぶ小僧が本堂に戻った
 事を確かめると、土牢の格子戸を開け、牢の中の罪人に、
 「さ、お出になれい。」と言ったのであった。
 その日も、今日の様に、強い風が吹いていた。そして、
 土牢の地面に正座する罪人に向かって、住職はもう一度、
 「さあ、出られい。」と言ったのである。
 しかし、罪人は、外に出ようとしなかった。そして、
 無言で微笑み、住職に深く一礼を送って、罪人は、その
 ままそこで、まるで瞑想をする様に、目をつぶり続けた
 のであった。
  その時、牢の外では、桜が満開だった。そして、風が
 運んで来た桜の花びらが、いつまでも、住職の足元で踊
 り続けたのだった。

                            

                      5

  住職は、その朝の事を昨日の事の様に記憶してゐた。
 その朝、住職は、罪人を逃せば自分に科せられる咎(とが)
 をも省みず、土牢の木戸を開けたのであった。そして、住
 職は、領主の言いつけに背いて罪人を自由にする以上、
 自分は、その後、桜の花びらが積もる土牢の前で、自刃し、
 領主に詫びる積もりであった。しかし、罪人は、牢を出な
 かった。そして、今も、その牢の中に居るのである。一体
 何故、あの時、罪人は、外に出ようとしなかったのだろう
 か?
  罪人は、その時も、その後も、その理由を語ろうとはし
 なかった。その為、住職は、その理由をただ想像する他は
 無かったのであるが、住職は、はじめ、こう考えた。あの
 時、罪人が外に出ようとしなかったのは、罪人が、住職の
 身を案じたからであると。即ち、住職が、領主の命に背い
 て罪人を逃がせば、領主が住職に迫害を加える事は明らか
 である為、又、そうである以上、住職は死を覚悟して居る
 に違い無い事を罪人は知って居るからこそ、罪人は牢を出
 なかったのであると。そう住職は思ったのである。住職に
 は、それ以外の理由は考えられなかった。そして、そう信
 じて、罪人の心に打たれた。しかし、時が経つに連れ、住
 職は、あの時罪人が牢を出ようとしなかったのは、実は、
 他に理由が在ったのではないか?と思う様に成ったのであ
 った。罪人は、もちろん、住職の事をも案じたには違い無
 かった。しかし、住職は、それだけが罪人が牢を出なかっ
 た理由ではない事に気が付いたのである。即ち、罪人は、
 あの時、住職の身を案じて土牢を出なかったのではなく、
 既に自分の選択として、土牢の中で生き続ける事を選んで
 ゐたのではないか?つまり、罪人は、最早、土牢に入れら
 れた事をただ自分の不幸な、悲惨な運命として耐えてゐる
 のではなく、自らそれを選んでいるのではないか?と住職
 は、思ふ様に成ったのであった。それは、罪人の領主に対
 する戦いに違い無かった。
  罪人は、領主が与えた過酷な運命から逃げようとせず、
 それどころか、その過酷な運命を自ら選択し、土牢の中で
 生き続ける事で、領主と戦い続ける事を選んだ事に、住職
 は、気が付いたのである。住職は、そう思う様に成った。
 しかし、そう思ふ様に成っても、そして、あの朝を思い出
 させる桜の季節が来ても、罪人にそれを尋ねる様な事は、
 もちろん、しようとしなかった。その代はりに、住職は、
 毎朝、墓地の奥に在るこの土牢に通い続け、春が来れば、
 こうして罪人に、外の世界で桜が咲いた事を語り、それを
 喜び合ふばかりなのであった。

                       6

 不思議な事であったが、住職の心の中には、いつの頃からか、あの朝、罪人が牢を出なかった事を密かに喜ぶ様な、奇妙な感情が宿っていた。それは、あの時、自身の生命と引き換えにしてでも、罪人を逃がそうとした、この住職の心情を思い起こせば、はなはだ奇妙な感情であるに違い無かったが、その奇妙な感情は、時と共に、住職の心の中で、次第に大きく、そして、自身の自然な感情に成りつつあったのである。それは、まるで、住職が、あの朝、罪人が逃げない事を確かめる為に、土牢を開けたかの様な錯覚すら生む、まことに奇妙な感情であった。住職は、あの朝、牢が開けられたにも関わらず、そこを出ようとしなかった罪人に心を打たれ、罪人への畏敬を深めたのであったが、その結果、住職は、自分が、この罪人の身近に居る事を自らの誇りと思ふ様に成ったのである。それこそが、住職が、あの朝、罪人が牢を出ず、その後も自分の身近のに居る事を密かに喜ぶ気持ちの理由に他成らなかった。
 住職は、あの日以来、二度と再び、罪人に牢から出る事を勧める事も促そうとはしなかったが、それは、住職の罪人に対する深い畏敬の表れに他成らなかった。その代わりに、住職は、その事件の翌日から、毎日無言で土牢の前に現れ、そこに座し、土牢の前に在る自然石を鑿(のみ)で彫り始めたのである。数か月後、その石は、一体の地蔵と成った。その新たに彫られた地蔵を見て、罪人は、土牢の中から、無言で手を合はせた。それは、明らかに、住職が、領主に斬られた罪人の幼い息子の為に彫った地蔵であった。罪人は、それから毎日、朝夕にその地蔵を向き、牢の中で念仏を唱えたが、その地蔵は、明らかに、罪人に土牢を出る意思が無い事を知った住職が、最早、牢の外で子を供養する事の無い罪人が、せめて、牢の外の地蔵に手を合わせ、供養出来る様にと、彫ったものであった。その地蔵の顔を見て、罪人は、三途の川に居るのは、領主に斬られた子ではなく、その土牢で生き続けようとする自分自身である様な錯覚を抱いた。
 そして、あの時、自分が、住職が開けた土牢を出なかった事は、三途の河原で石を積む子供が、地蔵の慈悲を拒んだ様な行為であったかも知れないとの思いを、罪人は、その後もしばしば抱く事が有ったのである。その様な思ひを抱きながら、罪人は、土牢の中で、幾度も春を迎え、送った。そして、今年も、風は、土牢の前に桜を運んで来たのであった。

                       7

 その朝も、住職は、いつもの様に地蔵に向かい、読経をした。そして、読経を終えると、住職は、数珠を手にしたまま、静かに後ろを振り返った。住職の後ろでは、罪人が、いつもの様に、土牢の中で正座し、住職が読経を終えてからもなお、目を閉じたまま、その地蔵に向かって両手を合わせていた。罪人のその姿を見て、住職は一瞬、目を閉じた。そして、何事かを思うと、再び振り返って、その小さな地蔵を見つめた。地蔵の前には、風が運んだ桜の花びらが数枚散らばり、まるで誰かが捧げた様に、その土の上を飾ってゐる。その土の上の花びらを見つめながら、住職は、春の再来を知り、心の中で喜んだ。住職は、そして、かつて自分が罪人を逃がそうとした春の朝を思い出したが、その事は、もちろん、口にしなかった。住職は、その代わり、その春、自分が掘ったその地蔵に向かって、もう一度心の中で合掌し、あの世に居る罪人の子にその桜をお届け下さいと願じたのだった。すると、風が吹いた。土牢が掘られたその低い崖の上には木が鬱蒼と生い茂っている。その木々は、多くが、冬も緑をたたえていたが、その風に、崖の上の木々は、揺れて、海鳴りの様な音に包まれたのだった。その音に住職は、驚かされた。風は朝から吹いていたが、それが少しやんだと思われた矢先、その風が吹いたからである。そして、その風の音に、住職は、思わず、頭上を見上げた。見ると、住職の頭上には、風に揺れる木々の枝とその枝の網の上に広がる青空が有った。そして、その晴れた青空を、鷺(さぎ)の様な白い雲切れが二つ、天で戯れる様に変えながら、音も無く、南から北に、渡っていくのを、住職は見たのである。その雲を見ながら、住職は、天は何と高いのだろう、と思った。そして、その天の底に立ち尽くしながら、目を雲から地面に落とした時、住職は、先程自分があの世に居る罪人の子供にお届けあれと願じた地蔵の下の花びらが、その風に運び去られて、もう地蔵の足元から消えている事に、気が付いたのだった。

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 それから数日は、穏やかな日が続いた。空気は冷たかったが、それはもう冬の冷気ではなかった。風は吹いたが、最初の嵐の様な風は、もうやって来なかった。代わりに、穏やかな風が、罪人の土牢を訪れ、頭上の梢で何かをささやき、訪れた新しい春を祝福していた。梢の上には、青空が有り、白い綿雲が、南から北へ、その空を絶えず流れて居たが、空は曇らず、晴れた日が、その数日は、続いたのであった。風は、桜を運んで来た。そして、その桜を土牢の前に置くと、再び何処かへ
と去って行った。風は、毎日そうして桜の花びらを罪人の前に運んで来たが、それは、まるで、風が、何処か遠い場所から桜の花びらを運んで来て、罪人が居る土牢の前に置き、そして、すぐにその遠い場所に戻って、また花びらを運んで来るかの様であった。そして、その運ばれた花びらは、時々、思い出した様にその風によって黒い土の上を動き回り、新しく運ばれた花びらと混じり合ひ、次第に、数を増やして行くのであった。
時には、そこで、小さなつむじ風が起こる事も有った。花びらは、そのつむじ風の一部と成って、罪人の前で回り、やがて、止まった。それは、まるで、罪人の前で、姿の見えない子供が遊び、はしゃいでいる様な光景であった。そして、その小さなつむじ風は、時には、罪人の居る牢の中にも、気まぐれに入
り込み、牢の土の上に花びらを置く事も有るのだった。罪人は、毎朝、住職が牢を去ると、一人と成った。そして、いつもは、牢の中で書物に向かったり、写経をしたりして時を過ごすのだったが、毎春、桜が咲き、自分の居る土牢の前が桜の花で覆われるこの数日は、そうした事をせず、ただじっと、目の前の土の上の花びらを見つめて時を過ごす事が多く成るのだった。そして、時々吹く風の音に耳を澄まし、その風と共に、地面の上をうごめく木の影を見つめて、春の日を過ごすのであった。毎春、土牢の前が桜の花びらで埋まる時、罪人は、幸福だったのである。

 

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 罪人の前で、花は、踊った。牢の前の土の上で、白い桜の花たちは、くるくると回り、罪人にそこにおいでと誘い続けた。木漏れ日が、その遊びに加わり、風と光と桜の花びらが、三人の子供の様に朝から夕方まで、目の前で遊ぶのを、罪人は、毎日、飽きずにながめ続けた。時折、遠くの木々が、海の様に音を立てると、罪人は、その音に耳を澄まし、目の前で
回るその花びらたちがやって来た、遠い場所の光景を心の中に思い描いた。
 土牢に入れられてから、罪人は、思い出をいつくしむ様に成った。この寺の周囲は、罪人が生まれ育った土地である。そこは、城の近くであり、近くには、罪人が、幼少の頃、兄弟と遊んだ寺の境内も有れば、若侍と成り、弓を射た場所も有った。そして、領主の家臣として、罪人が住み、子の成長を見守った家も、全てが、この土牢から遠からぬ場所に有ったのである。
 この城下に生まれ、この城下で生きて来た罪人にとって、この寺の周辺は、その様な思い出に満ちた土地であった。しかし、この土牢に入るまで、罪人は、そうした、この辺りの光景をさほどいとおしい物とは思って居なかったのである。それが、この土牢に入れられてから、罪人は、かつては余りに身近であった為、何とも思わなかった、この辺りの風景をいとおしく思い、心の中で、思ひ描く様に成ったのであった。
 春が訪れ、桜の花が、風に乗って運ばれて来ると、罪人は、その花たちが咲いて居た桜の木々を思い描き、この辺りの春の光景を想像した。そして、それらの場所で出会った、甘美な思ひ出を心に浮かべて、風の音に耳を傾け続けるのであった。

                            


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 そんな、罪人が牢の中で思い浮かべる風景の一つに、城の近くの丘が有った。
 それは、城を出て、少しばかり行った場所に在るゆるい丘で、見晴らしが良く、そして、丘全体が、桜の古木に覆われた、風光明媚の場所であった。
 春に成ると、その丘は、満開の桜に覆われる。そして、その地面は、散った桜の花で一杯に成る。その上、その丘からは、城外のあちらこちらに咲く桜を遠望出来る為、そこは、この辺りの花見の名所に他成らなかった。
 罪人は、子供の頃、その丘を駆けて遊んだ。そして、親と成ってからは、春に成ると、妻と子を、そして今は亡い母を連れて、その丘に出掛けたのであったが、その丘は、領主が、毎春、家臣と側室を連れて、盛大な花見を催す場所でもあった。即ち、領主は、毎春、桜が満開と成ると、その丘に家臣と側室を多数連れて出掛け、その丘の一角で花見を行なう事を常としたが、領主の家臣であった罪人は、七年前の春、まさに領主が催すその花見に毎年の如く加はった際、まるで騙し討ちの様に、突然、桜の下で捕えられ、この土牢に入れられたのであった。
 その為、罪人は、牢の中で、その丘の光景を思い出す時、自分の心の中に、その丘に咲いた満開の桜の光景とともに、特別な感情が沸き起こる事をどうする事も出来無かった。そして、自分の居る土牢の前に風が運んで来る白い桜の花びらを見る時、罪人は、その花の多くが、土牢から遠くない、その丘から運ばれて来たに違い無い事を思い、その春の丘の光景を想像せずには居ないのであった。


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 領主は、その年も、花見に出掛けた。いつもの春と同様、領主は、家臣と側室を連れ、城からほど遠くないその丘で花見を催し、新しい春の訪れを楽しもうとしてゐた。桜は、満開であった。領主は、その満開の桜に包まれた丘の一隅の、最も景色の良い場所に、花見の場を設けさせ、茶を立て、酒を楽しみ、そして、猿楽に興じる事を毎春の常として居た。そして、今年も、領主は、そうして丘の一隅で花見を催し、家臣や側室と共に、春の一日を過ごそうとしたのであった。その日は、風は有ったものの、空は晴れ、数日前までの冷気も失せ、まさに、
花見日和(びより)の日と成った。領主は、例年同様、多くの家臣を連れ、客人らを招き、桜の下で、自ら茶を振る舞った。そして、その満開の桜の下で、自ら猿楽を舞って、満悦であった。ただ、寄る年の為か、酒が、早く回る様に成った事に領主は驚き、心の中で苦笑せずには居られなかった。
 花見がたけなわの時、領主は、静かに座を立った。花見の酒が回り、領主は、ふと、一人に成りたく成ったのである。領主は、伴の者に「構ふな」と言い、客達の円座を離れて、満開の桜の下を一人歩こうとした。が、それでも伴の者が来るのでそれを叱り、ようやく、領主は、少しだけ、独りで桜の下を歩く事が出来たのであった。

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 領主は、一同の座を離れ、独り、桜の下を歩いた。そして、一同が花見を続ける場所を少し離れたその丘のゆるい斜面に出ると、そこに在る桜の古木の一つの下で、その足を止めた。そこは、見晴らしの良い場所で、そこで立ち止まった領主の目の前には、丘のふもとの野の光景が、南に向かって広がってゐた。
 それは、まだ冬枯れのままの萱原(かやはら)と、水の引かれていない冬のままの田が広がる早春の野の光景で、その所々に、竹薮(たけやぶ)や林が在り、そして、茅葺(かやぶき)の家々が散在して居た。そして、その山水画の様な光景の所々に、白い花を満開に咲かせた桜の木々が咲いているのが、領主が立ったその丘の斜面から見渡されるのであった。
 領主は、以前にも、この場所に立って、この春の野の光景を見やった事が有った。領主は、その同じ光景を見ながら、自分が、毎年、この丘の上で花見を催して来た事を改めて想起したが、その時、領主の心に生じた感情は、感慨と言ふよりは、むしろ、寂寥に近い、空虚な感情であった。「又、一年が過ぎたのだ」と領主は思った。そして、この丘で花見を催す毎に、その事を思う自分を心の中で自嘲しながら、桜が所々に咲いた、その早春の野を見つめ続けた。耳を澄ますと、その明るい野のあちらこちらで、鳥が鳴いているのが、領主が立っている丘の斜面からも耳にする事が出来た。それは、冬の間は聴く事の出来無かった、歌う様な、明るい鳴き声であったが、何か不安げな鳴き声の様でもあった。その鳥の声を聴きながら、領主は、何処かで人の声が聴こえないかと耳を澄ました。だが、人声は聴かれなかった。そして、その風景の何処にも、その時、人の姿は見られないのであった。全ては、明るく、光に包まれていた。だが、その風景は人気(ひとけ)が無く、領主は、寂寥を感じずに居られなかった。領主は、一同の居る場所に戻ろう、と思った。花見は、今がたけなわであった。もう一度、一同の前で猿楽を舞い、それから、更に杯を重ねようと考えて、領主は、野を背にし、花見の座へと戻り始めた。ところが、その時、領主の心に、七年前、この丘で催した花見の席で、自分が捕えさせたあの罪人の事が、不意に浮かんだのであった。


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 領主は、罪人の事を忘れていた。が、今、突然、七年前、自分が、寺の土牢に入れた、あの罪人の事を思い出し、その場で、足を止めたのであった。
 領主は、あの罪人が死んだとは聞かされていなかった。そして、去年の春、あの罪人が生きている事を聞き、心の中で嘲笑した事も有った。だが、この一年の間は、あの罪人の事を思い出す事は、一度も無かったのである。それが今、領主の心に、あの罪人の事がよみ返り、一体、今、あ奴はどうして居るだろう?と言ふ思いが、まるで雲の様に、領主の心の中に、湧き上がったのであった。
 領主は、自分の心に驚いた。そして、その場で後ろを振り返り、丘の下に広がる春の野を見渡した。それは、先ほどと全く変わらぬ光景であった。が、領主は、その同じ光景に、先ほどとは全く違う何かを感じて居たのである。

 次の瞬間、領主は、今から馬に乗り、あの寺で、土牢に入れられたあの男に会ふ事を心に決めていた。

                           

                     14

 領主は、白馬に跨り、丘を下った。領主が、花見の座を離れると言ったので、会席した一同は、その言葉を不審に思った。が、領主は、少し馬に乗りたく成ったのだと言い、一同に花見を続ける様にと言った。そして、すぐに戻るからと言い残すと、数名の武者を引き連れて、あの罪人が居る寺へと向かったのであった。領主が乗った白馬は、満開の桜の下を駆け、ゆるい斜面を下って、あの寺へと向かった。領主が先頭を走り、供の者たちは、それを追ったが、誰も、領主が、急に寺に向かおうとする理由は知らなかった。供の武者たちは、そうして、理由も知らされぬまま、ただ、領主の白馬を追って、馬で、共にあの寺へと向かったのであった。寺に向かう坂道には、木漏れ日が踊り、桜の花びらが、そこかしこに散って居た。領主とその供の者たちは、その坂を速足で駆け、寺へと向かったが、馬の名手である領主は、供の者たちより先にその坂を下り、後に続く家臣たちよりもずっと先を、一人駆け続けたのであった。やがて、領主は、寺の前に到着した。領主は、そこで馬を降り、久しぶりに訪れたその寺の山門の前に立った。領主は、辺りを見回したが、その風景は、領主が、最後にここに来た時と何も変わっていなかった。辺りの木々も、山門も、そして、その山門に在る古い仁王たちの姿も、時の流れが止まって居たかの様に、そのままであった。領主は、そこで、その山門の仁王たちを見上げ、その変はらぬ姿を無言で見つめ続けた。間も無く、供の武者達の馬が、到着した。供の者たちは、領主が余りに速く馬を駆けたので、不覚にも、遅れを取ったのであった。だが、領主は、後から到着した供の者たちには構おうとしなかった。その代わり、先に寺の前に着いた領主は、山門の前に立ち、無言のまま、そうして、そこで、その古い仁王たちを見つめ続けて居るのだった。そこで、到着した供の者の一人が、山門から寺の境内に入り、大きな声で、寺に領主の訪問を告げた。その武者の声が春の寺に響き、寺の者が姿を見せた時、領主は、ようやく、その古い仁王たちから目を離し、境内に足を向けたのであった。

                           


                      15

 領主が、突然寺を訪れたと言う知らせに、住職は、驚かされた。住職は、寺の者たちに、領主を迎える様命じたが、その時、住職は、胸騒ぎを覚えずには居られなかった。
しかし、住職が、境内で領主を伏して迎えた時、領主は上機嫌で、住職と寺の者達に向かって「構うな」と言い、住職に不意の来訪を詫びたのだった。そして、領主は、その境内で、鐘楼の横に咲く、桜の古木を見上げ、住職に、その満開の桜の見事さについて語り掛けたのであった。住職は、寺の者達と共に、領主の足元に伏しながら、領主の言葉を聞いた。そして、領主の言葉に謝辞を述べたが、そうして、境内の地面に伏して領主の言葉を聞きながら、住職は、領主が、ただ、この鐘楼の横の桜を見る為にここに来たのだとは、思えなかった。やがて、その桜の話をする内に、領主は、ふと黙った。そして、住職に「面を上げい。」と言うと、機嫌良さそうに、「ところでの。」と言ったのだった。住職が、境内に伏したまま顔を上げ、「は。」と答えると、領主は、住職のその顔を見つめ、静かに問い掛けた。「あの者はどうしておる?」領主は、住職の顔をじっと見つめて居た。

桜(『第一集・第一話』)


                       16

 住職は、領主を土牢に導く事と成った。領主は、供の者たちに、境内で待つ様に言ひつけ、住職に従って、土牢が有る寺の墓地へと向かった。
 住職は、領主の心を図りかねた。そして、これから、一体何が起こるのか、強い不安に駆られたが、住職には、言われるがままに、領主を先導して、土牢に向かう他は無いのであった。
 そうして、土牢への道を歩く間、領主は、何も言葉を口にしなかった。領主のその沈黙は、住職をますます不安にした。一体、領主は何故、今、突然、寺を訪れ、あの罪人に会いたいと言い出したのか?住職は、領主の沈黙に、その問いへの答えが込められて居るのではないか?と思わないでは居られなかった。

 その住職と領主が、土牢に近ずいた時、土牢の中の罪人は、その近ずく足音に気が付き、正座した。罪人は、何故、この時間に住職が来るのか、と思った。そして、耳を澄まし、その近ずく足音が、住職一人の足音ではない事に気付いた時、罪人は、牢の中で、その足音の主を想像せずには居られなかった。


                      17

 領主は、墓地の奥に導かれた。そして、そこで、自分の前に現れた低い崖とその崖に掘られた古い土牢を目にした。領主は、そこが、あの罪人が入れられた土牢である事を記憶して居た。
 すると、そこまで領主を先導して来た住職が、不意に立ち止まり、領主に道を開けた。住職は、そして、無言のまま、道の脇に立ち、領主に深々と頭を下げたのであった。
 領主は、うなずいた。そして、数歩前に出ると、領主は、一旦、自分も、そこで足を止めた。そして、その場所から、領主は、その崖に掘られた土牢をじっと見つめたのであった。領主は、まだ、土牢の前まで進もうとはしなかったのである。

    領主の足元は、桜の花びらで埋もれていた。

                     18

 領主は、その場所から、土牢の中を凝視した。そして、その土牢の中に、あの男が正座しているのを確かめると、その場で、その男の表情を見極めようとした。
 だが、領主が立って居る場所は、土牢からはまだ距離が有ったので、その薄暗い土牢の中で正座するその男の表情を読み取る事までは出来無かった。
 領主は、距離は有るものの、自分の視線が、牢の中に居るその男と合うのを感じた。そして、その視線の故に、そこから前に進もうとせず、しばし、その場に足を止めたのであった。が、やがて、その場の空気と罪人の視線に慣れると、領主は、ゆっくりと前に進み、土牢の前へと近ずいたのであった。
 住職は、そうして領主が土牢に近ずくのを、領主の横で頭を下げたまま、領主の足音の移動によって感知した。そして、今これから、牢の前で、何が起こるのかを予測出来ぬまま、ただひたすら、心の中で、阿弥陀如来の名を念じ続けたのであった。

                     19

 二人は、対面した。が、直に視線を合わせては居なかった。土牢の前に立った領主が見つめて居たのは、土牢の中に正座する罪人の姿の全体である。領主は、そうして、罪人と直接に目は合はせずに、それが、あの男である事を確かめようとしたのであった。領主は、一瞬、その正座する罪人の姿を不動明王と見間違えた。が、それは、不動明王ではなかった。それは、間違い無く、七年前、自分がこの牢に入れた、あの武士であった。武士は、髭を伸ばし、そして、明らかに痩せて居た。だが、武士は、思ひの他、その容姿を変えては居ないのであった。
 領主は、先ず、土牢の中の武士が、そうして、容姿を大きく変えてゐない事に驚かされたのだった。そして、領主は、罪人が、突然の自分の出現に驚いた様子も見せず、牢の中で、静かに正座し続ける事に当惑した。だが、領主は、領主である自分の面目に賭けて、その当惑を顔に出す事は出来無いのであった。不意に出会った獣と対峙する様に、領主は、視線をそらさず、そして表情を変えないまま、そうして、土牢の前に、立ち続けたのだった。


                      20

 風が、吹いた。その風に、領主の足元の花びらが、土の上を踊った。領主は、目を落とし、自分の足元で踊る、それらの花びらを見つめた。領主は、その時、自分の足元に、これほど多くの桜の花びらが有った事に気付き、驚いたのだった。
 だが、その風は、すぐにやんだ。たった今、領主の足元で踊った花びらたちは、動きを止め、牢の前の地面は、しんと静まり返った。領主は、その時、自分が、ここに何をしに来たのか、分からなく成って居た。


                       21

 再び、風が吹いた。が、今度の風は、静かな、優しい風であった。その穏やかな風の中で、花びらは、今度は、殆ど動こうとしなかった。

                          


                       22

 領主は、一瞬、その土牢の前に流れる時間が、止まった様な錯覚を覚えた。


                       23

 静けさの中で、領主は、幸福な感情に心を満たされた。それは、領主がここに来た時、全く予想も期待もして居なかった感情であった。


                        24

 領主は、ふと、足元を見た。見ると、花びらに埋もれた領主の足元のすぐ横に、小さな地蔵が有ったのである。
 領主は、その地蔵の愛らしさに打たれた。そして、思はず、その地蔵に向かひ、目を閉じて、両手を合わせた。すると、再び風が吹き、その地蔵の前の桜の花びらを、何処かへと運び去ったのであった。

                      25

 領主は、目を開けた。そして、目を開けたまま、なお、その地蔵に向かって合掌
を続けた。その時、領主は、不意に、背後に居る罪人の存在を意識したのであった。

                           

                       26

 領主は、我に返った。風の中で、領主は、今日、自分がここに来た理由を思い出した。領主は、心を決め、地蔵に向かって合わせてゐた自分の手を下ろした。そして、ゆっくりと後ろを向き、自分の背後に居る、土牢の罪人を振り返ったのであった。                                                    


                      27

 領主は、先ほどと同様、牢に座る罪人と向かい合った。罪人は、領主が地蔵に手を合わせてゐる間も、領主の背中をじっと見つめて居た様だった。風が、再び、領主の足元の桜を舞わせたが、領主は、今度は、それらの花びらに気を取られなかった。
 領主は、不動のまま、土牢の中に座る罪人を見つめ、罪人も、正座したまま、牢の前の領主を見つめ続けた。ただし、二人は、お互いに、相手の目を見ようとはしなかった。二人は、お互いに、相手の全身を見つめ、共に、そこで、不動の姿勢を取り続けたのだった。二人は、そうして、そこで、永久に、不動の姿勢を取り続けるかの様に思はれた。住職は、二人のその様子を、まるで、決闘を見守る様に、見守り続けた。


                      28

 すると、風が止んだ。そして、静寂が辺りを包んだ。その静寂に、領主は、不意に、これ以上ここに居る事が、無益である事に気が付いたのだった。
 領主は、自分が、これ以上ここに留まっても、この罪人は、泣く事も、許しを請う事もしない事を確信した。そして、自分が、ここで、これ以上罪人と対峙し続ける事は、逆に、この罪人に、勝利感さえ与えかねない事に気が付いたのだった。それは、領主が、ここに来た時、全く予想して居なかった事態であった。

                       29

 領主は、もう一度、頭上を見上げた。そして、木の枝の間に広がる春の空に、夕方の気配が漂い始めてゐる事を悟った。それから、領主は、視線をゆっくり、その空から降ろし、土牢の中の罪人に、もう一度、その視線を投げ掛けた。だが、領主が予想した通り、領主が空を見上げて居た間に、罪人の様子が変わって居る事は無かった。領主は、丘の上で続く花見の事を思ひ出し、帰らねば、と、思った。
 領主は、罪人に背を向けた。そして、無言で土牢と反対の方向に、つまり、寺の本堂に戻る道の方を向き、そちらへ、足を踏み出した。住職は、それを見て、一気に、緊張から解放された。これで終わった、と、住職は、思ったのである。
 だが、次の瞬間、領主は、その場で、不意に、その足を止めたのであった。

                      30

 領主は、土牢の周りに、桜の木が見当たらない事に気が付いたのだった。そして、それにも関わらず、土牢の前が、桜の花びらで、一面蔽(おお)われてゐる事に、領主は、気付き、不思議に思ったのだった。
 領主は、もう一度、後ろを振り返った。罪人は、矢張り、そこに居た。罪人は、その一面の桜を前に、土牢の中で正座して、じっと前を見詰め続けたままだった。それを見て、領主は、すぐに前を向き、再び、元の道を歩き始めた。そして、領主は、もう二度と後ろの罪人を振り返ろうとはしなかった。だが、本堂に向かうその道を歩く間、領主は、自分の心の中に、言い知れぬ屈辱感と、今日、ここへやって来た事への後悔の念が沸き起こるのを、どうする事も出来無かったのである。

                      31

 土牢から戻った領主は、寺の本堂へと寄った。そこで、領主は、縁側に座り、茶
を所望した。間も無く、茶が運ばれると、領主は、その茶の器(うつわ)を両手で
持ち、ゆっくりと、茶を飲み干した。そして、その茶碗を手にしながら、領主は、
しばらく、無言で、何事かを考え続けたのだった。
住職は、その領主の横で、縁側に正座し、領主が何事かを言うのを待った。だが、
領主は、無言であった。その為、住職は、再び不安に襲われた。日は傾き、日没が近ずいてゐたが、領主は、縁側に腰を掛けたまま、茶碗を抱き、寺を去ろうとしないのだった。             
                           

                      32

 領主には、罪人の心が読めなかった。一体、何故、あの罪人は、自分を前にして、あの様に落ち着いて居られたのだろうか?そして、何故、あの様に満ち足りた表情を浮かべて居られたのだろうか?領主には、それが驚きであった。今日、ここに来て、領主は、あの罪人の様子が、領主が思い描いゐた様子と余りに違う事に驚き、打ちのめされる思いをしたのであった。そして、領主は、そんな自分の驚きを、あの罪人は、自分の表情から読み取ったのではないか、と考え、それを何より恐れたのであった。それでは、自分は、一体、何の為にここにやって来たと言ふのか!と、領主は、思はずには居られなかった。

                      33

 領主は、その屈辱を心に秘めながら、手の中の茶碗を見つめ続けた。が、そうする内に、領主は、もう、行かねば成らない事を悟った。領主は、茶碗を縁側に置き、横で正座し続ける住職に、一礼をした。そして、「茶を馳走に成った。」と言うと、履物を履いて、ゆっくり、自分の馬の方へと向かったのであった。
 住職は、そこで、もう一度、深々と手をつき、来訪への礼を述べた。それから、住職は、座を立ち、馬に向かう領主を後を追った。そして、領主が、馬に近ずき、乗ろうとした時である。領主は、不意に、体を止め、馬に乗るのをやめて、住職を振り返ったのであった。
 住職は、何事かと思った。すると、領主は、住職の目を見ながら、ゆっくりと、こう尋ねたのだった。
 「あの者は、いつも、ああしておるのか?」
 突然の問い掛けに、住職は当惑した。が、住職は、その場で領主に頭を下げながら、すかさず、「はい。」と、答えたのであった。
 領主は、馬のたずなを手に持ちながら、その場で無言で考え込んだ。それから、再び、住職に尋ねた。
 「いつもか?」
 「はい。」
 住職には、領主が、何を聞こうとしてゐるのかが、解らなかった。が、領主は、そんな住職の様子には構わず、更にこう尋ねたのだった。
 「牢で何をしておる?」
 住職は、胸に動悸を感じながら、答えた。
 「写経などをしております。」
 領主は、何も答えなかった。そして、短い間考え込むと、こう尋ねた。
 「それが、あの者の楽しみか?」
 領主には、何者にであれ、写経を禁じる事などは、思いも寄らなかった。迷信深い領主には、その様な事をすれば、自分と自分の身の内に仏罰が下ると信じて居たからである。だが、住職は、領主のこの問いに、領主が、罪人から写経を禁じようとしてるのではないか?と思ったのであった。



桜(『第一集・第一話』)


                       34


 領主は、住職を見つめた。その視線に、住職は、思わず答えた。
「桜で御座居ましょう。」
「桜じゃと?」
 領主は、目を丸くした。住職は、ただ、領主が、罪人から牢の中での写経を禁じる事を恐れたのである。その為に、住職は、罪人が、写経などには関心が無いかの様に思はせようとしたのだった。
「牢の周りに桜など無いではないか?」と、領主は、問い返した。領主のその問いに、住職は、頭を低くしながら、答えた。
「御座居ませぬ。しかし、風が、遠くから、花を運んで来るので御座居ます。」
領主は、狐につままれた様な顔をした。が、領主は、住職が言ふ通り、先程自分が訪れたあの土牢の前が、白い桜の花びらで埋もれてゐた光景を思ひ出し、はっとしたのであった。
                          

                        35

 住職は、言葉を続けた。
「毎春、桜の頃と成りますと、桜が、あの牢の前に、吹かれて来るので御座居ます。それを、あの者は、何よりの楽しみにしてゐるので御座居ます。」
領主は、言葉を発しなかった。
「恐らくは、殿がお花見をなさりますあの丘の桜が、風に吹かれて、来るので御座りましょう。あの墓場の奥の、土牢の前辺りに、花が溜まるので御座居ます。」
住職は、領主の心が読めぬまま、その言葉を続けた。
「楽しみと言えば、それ位(くらい)かと。他には、何も無いかと、拙僧には思はれまする。」
 そう言ふと、住職は、言葉を切って、領主の表情を窺(うかが)った。

                       36

 領主は、無言だった。無言のまま、領主は、その場で動こうとせず、何事かを考え込み始めてゐた。
 その反応が、住職には意外であった。住職は、領主が、住職の答えにこの様な反応を示し、この場を去ろうとしなく成った事に、当惑せずに居られなかった。住職は、領主に、あの罪人には、楽しみなど何も無い事を言おうとしただけであった。その為に、住職は、あの罪人には、楽しみと言へば、春に、風が運んで来る桜の花びらぐらいしか無いと言おうとしたに過ぎなかった。しかし、今、住職の目の前で、領主が、住職のその言葉を聞いて、考え込んでゐる事に、住職は驚き、一体、自分の言葉が、領主の心の中に何を生じたのかと、思はずに居られなく成ったのであった。
 すると、遠くで、鳥が鳴いた。その声に、領主は、ゆっくりと、我に帰った。そして、ようやく、元の表情に戻ると、夕方の気配が漂ひ始めた、自分の頭上の空を見上げて、「そうか。」と、小さくつぶやいたのであった。
    


                       37

 領主が見上げた空の一隅には、夕暮れの雲の切れ端が浮かんでゐた。
 その小さな雲は、頂度、桜の花びらの様な色に染まり、桜の花びらの様な形をして、その青い空に漂ってゐるのだった。  領主は、その夕焼けに染まった春の雲を、水に浮かぶ花びらの様に見つめながら、ようやく、自分の白馬に跨(またが)った。そして、はやる馬を制しながら、自分を見送ろうとする住職を見下ろして、もう一度、「馳走に成った。」と、茶の礼を言った。
 住職は、その場で、深々と頭を下げた。すると、早駈けの名手である領主は、「どう」と言って、馬に合図を与え、そこを駆け出した。続いて、従者達の馬が、次々に、領主の白馬の後を追って、花見の続く丘へと向かった。
 彼らの姿は、すぐに見えなく成った。後に残されたのは、そこで彼らを見送った、住職と寺の者たち、それに、寺の山門に立つ、仁王たちであった。


                       38

 そうして、日は暮れた。領主が戻った丘では、かがり火が焚かれ、夜桜の下、猿楽と酒の宴(うたげ)が、夜遅くまで、続けられたのだった。

                       39

 それから数日、城下では、穏やかな日々が続いた。風は、吹き続けたものの、嵐の様な風が吹く日は無く、朝の冷気も、ゆるむばかりであった。
 寺では、いつもの様に、住職が、朝早く土牢を訪れ、罪人と語り合ったが、その際、二人の間で、数日前の領主の訪問が語られる事は、全く無く、そんな来訪は、無かったかの様であった。
 罪人は、住職が本堂に戻ると、いつもの様に、牢の中で写経をし、或いは、書を読んで時を過ごしたが、罪人のそうした様子には、数日前の領主の来訪の後も、何も、変はった処は、無かったのである。

                       40

 そうして、今年の桜は、終わろうとしてゐた。罪人は、牢の前の花びらが減るのを見て、牢の外の桜が終わった事を知った。そして、いつもの年の様に、牢の前に残る花びらを惜しみながら、翌年の桜を想ったのであった。ところが、全てが、いつもの春と変はりが無い、と思はれたその時、異変は、起きたのであった。

                            

                      41

 静かな朝であった。風は無く、空気が、暖かさを帯びたその日の朝、罪人は、いつもの様に、土牢の中で正座し、写経を行なってゐた。
 と、罪人は、筆を持ったその手を止めた。遠くで、何か、音が聞こえたのである。罪人は、耳を澄まし、その音が何であるかを知ろうとした。風は吹いてゐないので、
 罪人は、その音を良く聞く事が出来た。だが、それが何の音なのか、土牢の中の罪人には、直ちに判断する事は出来無かった。良く聞くと、その音に混じって、人の声や馬のいななきも聞こえて来る。・・・「狩りだろうか?」と、罪人は思った。いや、狩りではない、と罪人は思った。狩りの様だが、狩りでは聞こえない、高い音が、遠くから、規則正しい響きと成って、朝の空気の中を伝わって来るのであった。「まさか戦さでは?」とも思ったものの、身を持って合戦を知る罪人の耳に、それが、合戦の音でない事は、すぐに知れた。「一体、あれは、何の音なのだ?」と思ひながら、罪人は、牢の前の土を見つめた。

                           


                       42

 牢の前から、桜の花びらは、もう殆ど姿を消してゐた。土牢の前には、わずかに、数枚の花びらが残ってゐるばかりであった。そのわずかに残された桜の花びらを見ながら、罪人は、牢の中で、遠くから聞こえる、その奇妙な物音に耳を澄ました。そして、間も無く、罪人は、その音が、何の音であるかを悟った。それは、遠くで、木を切る音だったのである。
                          


                      43

 どうやらそれは、あの丘から聞こえて来る様だった。領主が、毎年、花見の宴を開くあの丘から、そして、かつて、罪人が、領主に花見の席で捕えられたあの丘から、その音は、聞こえて来るのだった。その音を聞きながら、罪人は、今、あの丘で起きつつある事を想像した。

                      44

 音は、次第に、はっきりと聞こえる様に成った。木を斧で切ろうとする音が、そして、木の倒れる音が、罪人の澄まされた耳に聞こえ、それに混じって人間の声が、そして、馬のいななきが、遠くからではあったが、はっきりと、聞こえる様に成ったのであった。
 そして、やがて、それに驚くべき音が加はった。それは、火の音であった。火が燃える音が、幽かではあったが、それらの音に混じり、確かに聴かれたのであった。
 それが空耳(そらみみ)でない証拠に、幽かな煙が、そして、その煙に伴ふ桜の木が燃える臭いが、罪人の居る土牢にまで、漂い始めたのであった。

                       45

 罪人は、目を閉じた。そして、目を閉じたまま、牢の中で、何事かを黙考した。
 すると、罪人のその耳に、丘からの音に混じって、墓地の道を、土牢へと近ずく何者かの足音が、聞こえた。
 罪人には、それが、住職の足音である事が分かった。だが、それは、罪人が毎朝耳にする足音とは違う、速足の足音であった。そして、その足音に、不安の音を聞き分けた罪人は、そこで、静かに目を開け、土牢の外を見つめた。すると、罪人の耳が聞き分けた通り、そこに、住職が、速足で、姿を現したのであった。
 住職は、牢の前で立ち止まると、息を切らせながら、罪人の顔を見つめた。そして、その息を鎮めると、罪人に、丘から聞こえる音が何であるかを告げたのであった。

                       46

 住職は、今朝、丘からあの音がするのを聞いて、寺の者に、様子を見に行かせたのであった。その者が、見た事によると、丘は、領主の家来たちとその馬で一杯であったと言ふ。そして、領主の家来たちは、そこで桜の木を切り、切り倒した桜の木々に火を放ち、燃やして居ると言うのであった。
 住職は、その者が語った光景に、戦慄して居た。そして、住職は、あの丘で、その様な事を始めた領主の意図を図りかねて居た。だが、罪人は、住職のその言葉を聴きながら、領主が、何故あの丘の桜を切らせ、火を放たせたかを、良く理解出来たのであった。


                      47

 罪人は、数日前、領主がここを訪れた時の事を思い出してゐた。そして、今、あの丘で起きてゐる事は、あの時、ここで起きた出来事の結果である事を、土牢の中に居ながら、理解出来たのであった。--丘に行き、そこで起きてゐる事を目で見ずとも、罪人には、それが解ったのである。
 住職は、そんな罪人の様子に驚きを抱いた。牢の中の罪人が、丘から聞こえる、木を切る音や、ここまで漂う微かな煙の中で、いつもの朝と変わらぬ、全く冷静な表情をしてゐたからである。罪人は、まるで、何事も起きてゐないかの様に、いつもの朝と同じ、静かな表情で、牢の中に座ってゐたのである。                            

                      48

 罪人は、合掌した。そして、牢の前の地蔵に向かって、何事かを祈った。その地蔵の足元には、まだ、桜の花びらが、まだ数枚残されてゐた。

          49

こうして、この年の春は、終はった。

                       50

 一年の時が流れた。土牢に再び春が訪れたが、その春は、それまでの春とは違ふ春の様に思はれた。

桜(『第一集・第一話』)


                      51

 それは、この土牢の前に、桜の花びらが運ばれなく成ったからであった。それまでの春の様に、風が、ここに桜の花びらを運ばなく成った為に、この年の春は、いつもの春とは違うものの様に思はれたのであった。

                      52

 罪人の前には、ただ、土が有るばかりであった。罪人は、その土を見つめ、そこが、桜の花に埋もれた春の日を思ひ起こした。

                            


                     53

 そして、罪人は、風の音に耳を澄ました。その音に、罪人は、その国の桜を思ひ浮かべ、その年の春を祝ったのだった。

                          


                  54

        そうして、その年の春は、終わった。


                      55

 それから、再び、一年の時が流れた。春が訪れ、桜が、満開に成った或る日、この国に、異変が起こった。家臣たちが、花見の席で、領主に、突然、隠居を迫った
のであった。その数年、領主は、ますます猜疑心を深め、家臣を誰彼と無く、疑ふ様に成ってゐた。そして、暴政を振るいながら、酒に溺れ、周囲の者の声を聞かず、この国の政(まつりごと)を誤った道に導いてゐたが、領主のそうした振る舞いを見かねた家臣たちは、あらかじめ、示し合わせた上で、花見の席で、突然、領主に隠居を迫ったのであった。
 その年の花見は、かつて、花見が催されてゐた丘が、領主の放った火によって、桜を失い、花見の場とは成り得なかった為、城から遠い、桜に囲まれた池のほとりで催されてゐた。領主は、そこで、今年も、主な家臣たちを引き連れ、酒と音曲の宴を催したのであったが、宴がたけなわと成り、領主が、猿楽を舞い終わった直後、領主は、そこに居る重臣達の全員から、突然、隠居をする様にと、迫られたのであった。

                            

                      56

 領主は、激怒した。そして、皆を代表して、自分に隠居を勧めた家臣に向かって、罵声を浴びせた。だが、その者は、ひるまなかった。それどころか、領主の前に正座したまま、領主のこれまでの振る舞いを諭し、重ねて、隠居を勧めたのであった。
 領主は、最早、自分の心を抑えられなかった。領主は、刀を取り、抜いた。そして、その刀で、自分の前に正座するその家臣を手打ちにしようとしたのである。すると、その時、側に居た別の家臣が、立ち上がった。そして、一言、かん高く、「殿!」と叫ぶと、刀を抜き、その声に振り返った領主を、その場で、斬ったのであった。


                     57

 領主は、倒れた。そして、女たちが悲鳴を上げる中、自らの血の中で、立ち上がろうとした。だが、領主は、最早、立ち上がる事は、出来無かった。その領主に、家臣は、「御免。」と言い、とどめを刺した。領主が、隠居を拒んだ場合、家臣たちは、こうする事を、あらかじめ決めてゐたかの様であった。
 家臣たちは、立ち上がった。そして、満開の桜の下で、領主を囲んで、合掌した。その合掌の輪の中で、領主は、間も無く、息絶えた。

                            

                    58


三日後、罪人の寺を、馬に乗った使者が、訪れた。


                      59

 それは、城からの使者であった。鎧(よろい)に身を包んだその使者は、山門の前で馬を下りると、住職に面会を求めた。そして、現はれた住職に、昼頃、城から重臣たちが、寺を訪れる旨を告げた。住職は、何事かと思った。その時、住職は、 三日前、花見の席で起きた事は、まだ、知らずにゐたからである。

                            

                     60

 住職は、鎧(よろい)に身を包んだ使者が訪れた事に、城で、何か異変が起きたのではないか?と思った。だが、その使者は、住職と寺の者たちに、それ以上は何も言はず、馬を返して、城へと戻ったのであった。
                      

                     61

 やがて、その使者が、馬に乗った重臣たちを先導して、再び現れた時、住職は、この国に、何事かが起きた時を確信したのであった。

                            


                      62

    使者の予告通り、重臣たちは、昼過ぎ、寺に現はれた。そして、出迎えた住職に深々と礼をすると、土牢に居る罪人への面会を求めたのだった。

                            

                     63

 その時、罪人は、いつもの様に、土牢の中で写経をしてゐた。すると、風の中で、墓地の方角から、数人の足音が、近ずいて来るのが、罪人の耳に、確かに聞こえたのであった。罪人は、写経の筆を止めた。そして、風の中で、その近ずく足音に耳を澄ましたのだった。

                            


                     64

 間も無く、その足音の主(ぬし)たちは、住職と共に、罪人の牢の前に姿を現した。そして、その足音の主達は、罪人に、大いなる知らせを告げたのであった。

                            

                     65

 重臣たちは、かつて桜で埋もれた土牢の前に、並んで正座した。そして、両手をその地面に置いて、牢の中の罪人に、深々と礼をした。罪人も、牢の中で、正座し、それに対峙した。すると、中央に座した重臣が、顔を上げ、一同を代表するかの様に、「お久しゅうございます。」と言ふ言葉を口にした。それは、三日前、花見の席で領主を斬った、あの重臣であった。罪人は、牢の中で、無言で礼をして、その重臣を見つめた。
「大殿が、お亡くなりになられました。」と、その重臣は言った。その言葉に、住職は、耳を疑った。そして、瞠目し、その重臣の背中を見つめた。だが、罪人は、その言葉に反応もせず、牢の中で正座を続けた。

                            


                     66

 「大殿は、三日前、花見のさ中に、突然の病(やまい)にて、お亡くなりになられました。」重臣は、そう言ふと、牢の罪人に向かって、再び、深々と頭を下げた。重臣は、そして、静かな声で、この国の家督は、隣国に追放されてゐた領主の長男によって継がれた事を告げた。罪人は、重臣が語った、これらの言葉を無言で聞いた。そして、その同じ言葉を、住職も、重臣たちの横で、動転する心を抑えながら、聞いたのだった。


                     67

 罪人は、目を閉じた。そして、牢の中で正座したまま、土牢の前の地蔵に合掌した。

                      68

 罪人が、その目を開けた時、土牢の入り口は、開けられてゐた。

                     69

そうして、罪人は、九年の時を経て、土牢を出たのだった。

                     70

 翌日、罪人は、あの丘に向かった。罪人は、住職に、九年前、領主が、花見の席で自分を捕えたあの丘を訪れたいと言ひ、住職と共に、土牢を出たばかりの体で、杖を突きながら、あの丘の頂きへと向かったのだった。


桜(『第一集・第一話』)

                      71

 罪人は、一歩一歩、丘を登った。九年の牢生活にも関わらず、罪人がその丘を登る事が出来たのは、罪人が、土牢の中でも鍛錬を続けた事の結果に違い無かった。しかし、それは、杖を突いての事であった。しかも、その歩みは、余りにもゆっくりとした物だったので、罪人が、杖を突きながら丘を登るその姿に、かつての侍大将の姿を重ねる事は、到底出来無かった。
 そんな罪人の姿に、住職は、昨日、罪人が土牢から出された事が、悲しむべき事であったかの様な感情を抱いた。そして、その罪人の後ろを歩きながら、罪人と共に、その丘の頂きを目指したのであった

                      72

 やがて、二人は、その丘の頂きにたどり着いた。そして、
そこで、目を疑ふ様な光景を見たのであった。


                     73

 それは、桜を失った、その丘の光景であった。即ち、二人は、かつてその丘をおおってゐた桜の木々が皆切られ、ただその切り株だけが、地面をおおう、その丘の無残な光景を目にしたのであった。

                     74

 罪人は、その無残な光景の前で立ち止まった。そして、その上に広がる空を見上げた。

                            

                      75

 空は、晴れ渡ってゐた。そこには、白い雲が、ただ一片、浮かんでゐるだけだった。


                     76

       罪人は、その白い雲を見つめた。

                 


                      77

 空は、静まり返ってゐた。そこには、何も音は聞かれなかった。風は有ったが、桜が切られたその丘に、音を立てる物は、何も無かったからである。風は、何も音を立てずに、その丘に残された桜の切り株の上を通り過ぎて行くばかりだった。そして、その丘の上には、空を舞ふ鳥の姿も無いのであった。


                     78

 空の何処からも、鳥の声は、聞こえなかった。その静まり返った空は、ただ青く、果てしが無いのだった。

                     79

 その空を見上げて、罪人は、初めて涙を流した。

                      80

 罪人は、目を閉じた。そして、目を閉じたまま、そこで、静かに、その青空を仰いだ。罪人は、そうして、何も聞こえない青空から、何かが聞こえるのを待とうとしてゐる様だった。だが、その空からは、矢張り、何も聞こえて来ないのだった。
 
                           


                      81

 空は、ただ、青く、そして、静まり返ってゐるのだった。
 
                            


                       82

 住職は、罪人のその後ろ姿を見守った。そして、無言で、その姿に合掌したのだった。


                      83

 罪人は、目を開けた。そして、その眼差しを、その青い空から、もう一度、地上へと落とした。そこには、先程(さきほど)と変はらぬ、無数の桜の切り株の光景が有った。そして、罪人は、その切り株の中に、先程と同様、立ち尽くす自分の存在を確認したのであった。その現実が、自分が、その青い空を見上げてゐた間にも、変はってゐない事を、罪人は、そうして、そこで、確かめたのだった。

                      84


 罪人は、その丘を、見回した。そして、その痩せた足を踏み出すと、そこから、ゆっくり、前に歩き始めたのであった。


                      85

 住職は、その後を追った。だが、住職は、罪人に声を掛ける事は、出来無かった。住職には、罪人が何処に行くのかを問ふ事は、出来無かったからである。そして、罪人に、何処に行けとも、行くなとも言ふ事は、出来無かったからである。住職は、ただ、罪人の後を追った。そして、罪人の後ろを、少し離れて、罪人の行く先を知ろうとしたのであった。すると、罪人が向かふ丘の稜線の向こうに、丘の下に広がる、この国の風景が、現れたのであった。そして、その野と畑の光景が、蒔絵の様に見渡される場所に来た時、罪人は、そこで、足を止めたのであった。

                     86

 罪人は、目の前に現れた、その風景を見つめた。そして、そこに広がるこの国の春の光景に、目を奪はれたのであった。


                      87

 一見すると、それは、冬のままの光景であった。野も、林も、冬枯れのまま、草を枯らし、葉を落としたまま、まだ淡い日の光を浴びてゐるだけであった。そして、その淡い光の中で、遠くの寺の瓦屋根が、黒い光を放ってゐるのが、それらの冬枯れの光景の中で、不思議な程目立ち、丘からそこを見下ろす罪人の目を惹くのであった。だが、その冬枯れのままに見えるこの国の風景の所々に、白い花を付け始めた、桜の木々が有るのを、罪人は、見たのであった。

                      88

 罪人は、無言で、その光景を見つめ続けた。そして、何事かを思ひ続けた。

                           

                      89

 すると、罪人のその思ひに答える様に、辺りに、静かな風が吹いた。

桜(『第一集・第一話』)

                       90

 その風は、音も無く、罪人を抱擁した。そして、その丘の静寂を破らぬまま、罪人の足元の枯れ草を、静かに波打たせた。その、音も無く波打つ枯れ草を、罪人は、奇跡を見る様に、見つめた。

                       91

 やがて、その風は、止んだ。すると、罪人の足元の草は、波打つのを止めた。その時、罪人には、その丘を流れる時間が、止まったかの様に思へたのだった。

                      92

 「俺は、夢を見てゐたのか?」と、罪人は、思った。「俺は、ずっと、ここに居たのではなかったか?」罪人は、そう自問しながら、ゆっくり、周りを見回した。そこに、自分が捕らえられた日と変はらぬ、満開の桜の光景が有るのではないかと、思ったのである。だが、そこに、罪人が想ひ描いた光景は、存在しなかった。その丘には、矢張り、あの、満開の桜の光景は無く、罪人が、先程目にした、無残な丘の光景が有るばかりなのであった。
                                

                      93

 その現実の前に、罪人は、牢の中で味わった事の無い、深い、敗北感に打たれた。牢の中で、罪人は、この丘の桜の光景を思ひ描く事が出来た。それは、たとえ、自分が訪れ、見る事が出来ずとも、牢の外に、間違い無く存在する、光景であった。それを、罪人は、牢の前に来る桜の花びらから、思ひ出し、思ひ描く事が出来たのである。だが、その桜が、全て失はれた事を自分の目で見た時、罪人は、最早、牢の中でして居た様に、思ひ出す事も、思ひ描く事も出来無く成ってしまったのであった。それほど、罪人の目の前の現実は、過酷であった。そして、その光景が失はれた事に、罪人は、自分の妻と子供が、最早、この世に居ない事を確信させられたのであった。その丘の光景こそは、罪人の、領主に対する敗北の証しなのであった。

                            

                      94

 罪人は、後ろを振り向いた。そこには、罪人を見守る住職の姿が在った。住職は、罪人の視線を受けながら、罪人のその視線が、何を言おうとして居るかを、理解した。住職は、小さくうなずくと、無言のまま、罪人が、その視線で告げた通り、ゆっくり、後ろを向いて、罪人と共に、この丘を去ろうとした。そして、罪人も、それに続いて、住職の後をゆっくりと歩いて、今来た道を戻ろうとその場を後にし始めたのであった。

                      95

 その時であった。罪人は、自分の横の桜の切り株に、小さな、一輪の白い花が咲いて居るのを、目にしたのだった。

                            


                      96

 それは、その切り株から咲いた、小さな桜の花であった。その花は、領主によって切られた桜の古木の切り株から、ただ一輪、野の花の様に咲いて、そこで、風に揺れて居るのであった。その切り株から咲いた花を目にした罪人は、その切り株の前で、足を止めた。罪人のその様子に、住職も、足を止めた。そして、住職は、罪人の様子を見つめたが、罪人は、住職のその視線は忘れて、その場で、その切り株に咲いた花を見つめ続けたのだった。
     


                      97

 何処からか、風がやって来た。そして、その風の中で、遠くで鳴く春の鳥の声が聞こえた。その鳥の声に、住職は、自分と罪人が、春を迎えた事を感じた。

                           

                      98

 罪人は、静かに、そこに膝を落とした。そして、その場に膝まずいて、その無残に切られた桜の切り株に、自分の手を触れた。桜は、切り株に置かれた、罪人のその手の前で、静かに、音も無く、風に揺れて居た。

                       99


 「ここに咲いて居たのか。」罪人は、その小さな桜の花を見つめながら、そうつぶやいた。


                     100

 罪人は、静かに立ち上がった。そして、住職と共に、春の光の中で、その丘を下った。

                                             (終)

    平成十八年三月三十日(木) 脱稿

    夕暮れの桜を見ながら

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