« 『桜・第二集・第一話』 | トップページ | 桜(『第一集・第一話』) »

2007年6月26日 (火)

桜(『第一集・第一話』)

                       90

 その風は、音も無く、罪人を抱擁した。そして、その丘の静寂を破らぬまま、罪人の足元の枯れ草を、静かに波打たせた。その、音も無く波打つ枯れ草を、罪人は、奇跡を見る様に、見つめた。

                       91

 やがて、その風は、止んだ。すると、罪人の足元の草は、波打つのを止めた。その時、罪人には、その丘を流れる時間が、止まったかの様に思へたのだった。

                      92

 「俺は、夢を見てゐたのか?」と、罪人は、思った。「俺は、ずっと、ここに居たのではなかったか?」罪人は、そう自問しながら、ゆっくり、周りを見回した。そこに、自分が捕らえられた日と変はらぬ、満開の桜の光景が有るのではないかと、思ったのである。だが、そこに、罪人が想ひ描いた光景は、存在しなかった。その丘には、矢張り、あの、満開の桜の光景は無く、罪人が、先程目にした、無残な丘の光景が有るばかりなのであった。
                                

                      93

 その現実の前に、罪人は、牢の中で味わった事の無い、深い、敗北感に打たれた。牢の中で、罪人は、この丘の桜の光景を思ひ描く事が出来た。それは、たとえ、自分が訪れ、見る事が出来ずとも、牢の外に、間違い無く存在する、光景であった。それを、罪人は、牢の前に来る桜の花びらから、思ひ出し、思ひ描く事が出来たのである。だが、その桜が、全て失はれた事を自分の目で見た時、罪人は、最早、牢の中でして居た様に、思ひ出す事も、思ひ描く事も出来無く成ってしまったのであった。それほど、罪人の目の前の現実は、過酷であった。そして、その光景が失はれた事に、罪人は、自分の妻と子供が、最早、この世に居ない事を確信させられたのであった。その丘の光景こそは、罪人の、領主に対する敗北の証しなのであった。

                            

                      94

 罪人は、後ろを振り向いた。そこには、罪人を見守る住職の姿が在った。住職は、罪人の視線を受けながら、罪人のその視線が、何を言おうとして居るかを、理解した。住職は、小さくうなずくと、無言のまま、罪人が、その視線で告げた通り、ゆっくり、後ろを向いて、罪人と共に、この丘を去ろうとした。そして、罪人も、それに続いて、住職の後をゆっくりと歩いて、今来た道を戻ろうとその場を後にし始めたのであった。

                      95

 その時であった。罪人は、自分の横の桜の切り株に、小さな、一輪の白い花が咲いて居るのを、目にしたのだった。

                            


                      96

 それは、その切り株から咲いた、小さな桜の花であった。その花は、領主によって切られた桜の古木の切り株から、ただ一輪、野の花の様に咲いて、そこで、風に揺れて居るのであった。その切り株から咲いた花を目にした罪人は、その切り株の前で、足を止めた。罪人のその様子に、住職も、足を止めた。そして、住職は、罪人の様子を見つめたが、罪人は、住職のその視線は忘れて、その場で、その切り株に咲いた花を見つめ続けたのだった。
     


                      97

 何処からか、風がやって来た。そして、その風の中で、遠くで鳴く春の鳥の声が聞こえた。その鳥の声に、住職は、自分と罪人が、春を迎えた事を感じた。

                           

                      98

 罪人は、静かに、そこに膝を落とした。そして、その場に膝まずいて、その無残に切られた桜の切り株に、自分の手を触れた。桜は、切り株に置かれた、罪人のその手の前で、静かに、音も無く、風に揺れて居た。

                       99


 「ここに咲いて居たのか。」罪人は、その小さな桜の花を見つめながら、そうつぶやいた。


                     100

 罪人は、静かに立ち上がった。そして、住職と共に、春の光の中で、その丘を下った。

                                             (終)

    平成十八年三月三十日(木) 脱稿

    夕暮れの桜を見ながら

http://nishiokamasanori.cocolog-nifty.com/blog/

------------------------------


    お読み頂き、ありがとうございました。

   御感想などお有りでしたら、この後に御自由に

   お書き下さい。


 
                   作者

« 『桜・第二集・第一話』 | トップページ | 桜(『第一集・第一話』) »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/196869/6937786

この記事へのトラックバック一覧です: 桜(『第一集・第一話』):

« 『桜・第二集・第一話』 | トップページ | 桜(『第一集・第一話』) »