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2007年6月26日 (火)

桜(『第一集・第一話』)

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 罪人は、一歩一歩、丘を登った。九年の牢生活にも関わらず、罪人がその丘を登る事が出来たのは、罪人が、土牢の中でも鍛錬を続けた事の結果に違い無かった。しかし、それは、杖を突いての事であった。しかも、その歩みは、余りにもゆっくりとした物だったので、罪人が、杖を突きながら丘を登るその姿に、かつての侍大将の姿を重ねる事は、到底出来無かった。
 そんな罪人の姿に、住職は、昨日、罪人が土牢から出された事が、悲しむべき事であったかの様な感情を抱いた。そして、その罪人の後ろを歩きながら、罪人と共に、その丘の頂きを目指したのであった

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 やがて、二人は、その丘の頂きにたどり着いた。そして、
そこで、目を疑ふ様な光景を見たのであった。


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 それは、桜を失った、その丘の光景であった。即ち、二人は、かつてその丘をおおってゐた桜の木々が皆切られ、ただその切り株だけが、地面をおおう、その丘の無残な光景を目にしたのであった。

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 罪人は、その無残な光景の前で立ち止まった。そして、その上に広がる空を見上げた。

                            

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 空は、晴れ渡ってゐた。そこには、白い雲が、ただ一片、浮かんでゐるだけだった。


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       罪人は、その白い雲を見つめた。

                 


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 空は、静まり返ってゐた。そこには、何も音は聞かれなかった。風は有ったが、桜が切られたその丘に、音を立てる物は、何も無かったからである。風は、何も音を立てずに、その丘に残された桜の切り株の上を通り過ぎて行くばかりだった。そして、その丘の上には、空を舞ふ鳥の姿も無いのであった。


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 空の何処からも、鳥の声は、聞こえなかった。その静まり返った空は、ただ青く、果てしが無いのだった。

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 その空を見上げて、罪人は、初めて涙を流した。

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 罪人は、目を閉じた。そして、目を閉じたまま、そこで、静かに、その青空を仰いだ。罪人は、そうして、何も聞こえない青空から、何かが聞こえるのを待とうとしてゐる様だった。だが、その空からは、矢張り、何も聞こえて来ないのだった。
 
                           


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 空は、ただ、青く、そして、静まり返ってゐるのだった。
 
                            


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 住職は、罪人のその後ろ姿を見守った。そして、無言で、その姿に合掌したのだった。


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 罪人は、目を開けた。そして、その眼差しを、その青い空から、もう一度、地上へと落とした。そこには、先程(さきほど)と変はらぬ、無数の桜の切り株の光景が有った。そして、罪人は、その切り株の中に、先程と同様、立ち尽くす自分の存在を確認したのであった。その現実が、自分が、その青い空を見上げてゐた間にも、変はってゐない事を、罪人は、そうして、そこで、確かめたのだった。

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 罪人は、その丘を、見回した。そして、その痩せた足を踏み出すと、そこから、ゆっくり、前に歩き始めたのであった。


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 住職は、その後を追った。だが、住職は、罪人に声を掛ける事は、出来無かった。住職には、罪人が何処に行くのかを問ふ事は、出来無かったからである。そして、罪人に、何処に行けとも、行くなとも言ふ事は、出来無かったからである。住職は、ただ、罪人の後を追った。そして、罪人の後ろを、少し離れて、罪人の行く先を知ろうとしたのであった。すると、罪人が向かふ丘の稜線の向こうに、丘の下に広がる、この国の風景が、現れたのであった。そして、その野と畑の光景が、蒔絵の様に見渡される場所に来た時、罪人は、そこで、足を止めたのであった。

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 罪人は、目の前に現れた、その風景を見つめた。そして、そこに広がるこの国の春の光景に、目を奪はれたのであった。


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 一見すると、それは、冬のままの光景であった。野も、林も、冬枯れのまま、草を枯らし、葉を落としたまま、まだ淡い日の光を浴びてゐるだけであった。そして、その淡い光の中で、遠くの寺の瓦屋根が、黒い光を放ってゐるのが、それらの冬枯れの光景の中で、不思議な程目立ち、丘からそこを見下ろす罪人の目を惹くのであった。だが、その冬枯れのままに見えるこの国の風景の所々に、白い花を付け始めた、桜の木々が有るのを、罪人は、見たのであった。

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 罪人は、無言で、その光景を見つめ続けた。そして、何事かを思ひ続けた。

                           

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 すると、罪人のその思ひに答える様に、辺りに、静かな風が吹いた。

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