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2007年6月26日 (火)

桜(『第一集・第一話』)


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 それは、この土牢の前に、桜の花びらが運ばれなく成ったからであった。それまでの春の様に、風が、ここに桜の花びらを運ばなく成った為に、この年の春は、いつもの春とは違うものの様に思はれたのであった。

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 罪人の前には、ただ、土が有るばかりであった。罪人は、その土を見つめ、そこが、桜の花に埋もれた春の日を思ひ起こした。

                            


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 そして、罪人は、風の音に耳を澄ました。その音に、罪人は、その国の桜を思ひ浮かべ、その年の春を祝ったのだった。

                          


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        そうして、その年の春は、終わった。


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 それから、再び、一年の時が流れた。春が訪れ、桜が、満開に成った或る日、この国に、異変が起こった。家臣たちが、花見の席で、領主に、突然、隠居を迫った
のであった。その数年、領主は、ますます猜疑心を深め、家臣を誰彼と無く、疑ふ様に成ってゐた。そして、暴政を振るいながら、酒に溺れ、周囲の者の声を聞かず、この国の政(まつりごと)を誤った道に導いてゐたが、領主のそうした振る舞いを見かねた家臣たちは、あらかじめ、示し合わせた上で、花見の席で、突然、領主に隠居を迫ったのであった。
 その年の花見は、かつて、花見が催されてゐた丘が、領主の放った火によって、桜を失い、花見の場とは成り得なかった為、城から遠い、桜に囲まれた池のほとりで催されてゐた。領主は、そこで、今年も、主な家臣たちを引き連れ、酒と音曲の宴を催したのであったが、宴がたけなわと成り、領主が、猿楽を舞い終わった直後、領主は、そこに居る重臣達の全員から、突然、隠居をする様にと、迫られたのであった。

                            

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 領主は、激怒した。そして、皆を代表して、自分に隠居を勧めた家臣に向かって、罵声を浴びせた。だが、その者は、ひるまなかった。それどころか、領主の前に正座したまま、領主のこれまでの振る舞いを諭し、重ねて、隠居を勧めたのであった。
 領主は、最早、自分の心を抑えられなかった。領主は、刀を取り、抜いた。そして、その刀で、自分の前に正座するその家臣を手打ちにしようとしたのである。すると、その時、側に居た別の家臣が、立ち上がった。そして、一言、かん高く、「殿!」と叫ぶと、刀を抜き、その声に振り返った領主を、その場で、斬ったのであった。


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 領主は、倒れた。そして、女たちが悲鳴を上げる中、自らの血の中で、立ち上がろうとした。だが、領主は、最早、立ち上がる事は、出来無かった。その領主に、家臣は、「御免。」と言い、とどめを刺した。領主が、隠居を拒んだ場合、家臣たちは、こうする事を、あらかじめ決めてゐたかの様であった。
 家臣たちは、立ち上がった。そして、満開の桜の下で、領主を囲んで、合掌した。その合掌の輪の中で、領主は、間も無く、息絶えた。

                            

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三日後、罪人の寺を、馬に乗った使者が、訪れた。


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 それは、城からの使者であった。鎧(よろい)に身を包んだその使者は、山門の前で馬を下りると、住職に面会を求めた。そして、現はれた住職に、昼頃、城から重臣たちが、寺を訪れる旨を告げた。住職は、何事かと思った。その時、住職は、 三日前、花見の席で起きた事は、まだ、知らずにゐたからである。

                            

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 住職は、鎧(よろい)に身を包んだ使者が訪れた事に、城で、何か異変が起きたのではないか?と思った。だが、その使者は、住職と寺の者たちに、それ以上は何も言はず、馬を返して、城へと戻ったのであった。
                      

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 やがて、その使者が、馬に乗った重臣たちを先導して、再び現れた時、住職は、この国に、何事かが起きた時を確信したのであった。

                            


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    使者の予告通り、重臣たちは、昼過ぎ、寺に現はれた。そして、出迎えた住職に深々と礼をすると、土牢に居る罪人への面会を求めたのだった。

                            

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 その時、罪人は、いつもの様に、土牢の中で写経をしてゐた。すると、風の中で、墓地の方角から、数人の足音が、近ずいて来るのが、罪人の耳に、確かに聞こえたのであった。罪人は、写経の筆を止めた。そして、風の中で、その近ずく足音に耳を澄ましたのだった。

                            


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 間も無く、その足音の主(ぬし)たちは、住職と共に、罪人の牢の前に姿を現した。そして、その足音の主達は、罪人に、大いなる知らせを告げたのであった。

                            

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 重臣たちは、かつて桜で埋もれた土牢の前に、並んで正座した。そして、両手をその地面に置いて、牢の中の罪人に、深々と礼をした。罪人も、牢の中で、正座し、それに対峙した。すると、中央に座した重臣が、顔を上げ、一同を代表するかの様に、「お久しゅうございます。」と言ふ言葉を口にした。それは、三日前、花見の席で領主を斬った、あの重臣であった。罪人は、牢の中で、無言で礼をして、その重臣を見つめた。
「大殿が、お亡くなりになられました。」と、その重臣は言った。その言葉に、住職は、耳を疑った。そして、瞠目し、その重臣の背中を見つめた。だが、罪人は、その言葉に反応もせず、牢の中で正座を続けた。

                            


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 「大殿は、三日前、花見のさ中に、突然の病(やまい)にて、お亡くなりになられました。」重臣は、そう言ふと、牢の罪人に向かって、再び、深々と頭を下げた。重臣は、そして、静かな声で、この国の家督は、隣国に追放されてゐた領主の長男によって継がれた事を告げた。罪人は、重臣が語った、これらの言葉を無言で聞いた。そして、その同じ言葉を、住職も、重臣たちの横で、動転する心を抑えながら、聞いたのだった。


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 罪人は、目を閉じた。そして、牢の中で正座したまま、土牢の前の地蔵に合掌した。

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 罪人が、その目を開けた時、土牢の入り口は、開けられてゐた。

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そうして、罪人は、九年の時を経て、土牢を出たのだった。

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 翌日、罪人は、あの丘に向かった。罪人は、住職に、九年前、領主が、花見の席で自分を捕えたあの丘を訪れたいと言ひ、住職と共に、土牢を出たばかりの体で、杖を突きながら、あの丘の頂きへと向かったのだった。


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