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2007年6月26日 (火)

桜(『第一集・第一話』)


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 住職は、領主を土牢に導く事と成った。領主は、供の者たちに、境内で待つ様に言ひつけ、住職に従って、土牢が有る寺の墓地へと向かった。
 住職は、領主の心を図りかねた。そして、これから、一体何が起こるのか、強い不安に駆られたが、住職には、言われるがままに、領主を先導して、土牢に向かう他は無いのであった。
 そうして、土牢への道を歩く間、領主は、何も言葉を口にしなかった。領主のその沈黙は、住職をますます不安にした。一体、領主は何故、今、突然、寺を訪れ、あの罪人に会いたいと言い出したのか?住職は、領主の沈黙に、その問いへの答えが込められて居るのではないか?と思わないでは居られなかった。

 その住職と領主が、土牢に近ずいた時、土牢の中の罪人は、その近ずく足音に気が付き、正座した。罪人は、何故、この時間に住職が来るのか、と思った。そして、耳を澄まし、その近ずく足音が、住職一人の足音ではない事に気付いた時、罪人は、牢の中で、その足音の主を想像せずには居られなかった。


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 領主は、墓地の奥に導かれた。そして、そこで、自分の前に現れた低い崖とその崖に掘られた古い土牢を目にした。領主は、そこが、あの罪人が入れられた土牢である事を記憶して居た。
 すると、そこまで領主を先導して来た住職が、不意に立ち止まり、領主に道を開けた。住職は、そして、無言のまま、道の脇に立ち、領主に深々と頭を下げたのであった。
 領主は、うなずいた。そして、数歩前に出ると、領主は、一旦、自分も、そこで足を止めた。そして、その場所から、領主は、その崖に掘られた土牢をじっと見つめたのであった。領主は、まだ、土牢の前まで進もうとはしなかったのである。

    領主の足元は、桜の花びらで埋もれていた。

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 領主は、その場所から、土牢の中を凝視した。そして、その土牢の中に、あの男が正座しているのを確かめると、その場で、その男の表情を見極めようとした。
 だが、領主が立って居る場所は、土牢からはまだ距離が有ったので、その薄暗い土牢の中で正座するその男の表情を読み取る事までは出来無かった。
 領主は、距離は有るものの、自分の視線が、牢の中に居るその男と合うのを感じた。そして、その視線の故に、そこから前に進もうとせず、しばし、その場に足を止めたのであった。が、やがて、その場の空気と罪人の視線に慣れると、領主は、ゆっくりと前に進み、土牢の前へと近ずいたのであった。
 住職は、そうして領主が土牢に近ずくのを、領主の横で頭を下げたまま、領主の足音の移動によって感知した。そして、今これから、牢の前で、何が起こるのかを予測出来ぬまま、ただひたすら、心の中で、阿弥陀如来の名を念じ続けたのであった。

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 二人は、対面した。が、直に視線を合わせては居なかった。土牢の前に立った領主が見つめて居たのは、土牢の中に正座する罪人の姿の全体である。領主は、そうして、罪人と直接に目は合はせずに、それが、あの男である事を確かめようとしたのであった。領主は、一瞬、その正座する罪人の姿を不動明王と見間違えた。が、それは、不動明王ではなかった。それは、間違い無く、七年前、自分がこの牢に入れた、あの武士であった。武士は、髭を伸ばし、そして、明らかに痩せて居た。だが、武士は、思ひの他、その容姿を変えては居ないのであった。
 領主は、先ず、土牢の中の武士が、そうして、容姿を大きく変えてゐない事に驚かされたのだった。そして、領主は、罪人が、突然の自分の出現に驚いた様子も見せず、牢の中で、静かに正座し続ける事に当惑した。だが、領主は、領主である自分の面目に賭けて、その当惑を顔に出す事は出来無いのであった。不意に出会った獣と対峙する様に、領主は、視線をそらさず、そして表情を変えないまま、そうして、土牢の前に、立ち続けたのだった。


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 風が、吹いた。その風に、領主の足元の花びらが、土の上を踊った。領主は、目を落とし、自分の足元で踊る、それらの花びらを見つめた。領主は、その時、自分の足元に、これほど多くの桜の花びらが有った事に気付き、驚いたのだった。
 だが、その風は、すぐにやんだ。たった今、領主の足元で踊った花びらたちは、動きを止め、牢の前の地面は、しんと静まり返った。領主は、その時、自分が、ここに何をしに来たのか、分からなく成って居た。


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 再び、風が吹いた。が、今度の風は、静かな、優しい風であった。その穏やかな風の中で、花びらは、今度は、殆ど動こうとしなかった。

                          


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 領主は、一瞬、その土牢の前に流れる時間が、止まった様な錯覚を覚えた。


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 静けさの中で、領主は、幸福な感情に心を満たされた。それは、領主がここに来た時、全く予想も期待もして居なかった感情であった。


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 領主は、ふと、足元を見た。見ると、花びらに埋もれた領主の足元のすぐ横に、小さな地蔵が有ったのである。
 領主は、その地蔵の愛らしさに打たれた。そして、思はず、その地蔵に向かひ、目を閉じて、両手を合わせた。すると、再び風が吹き、その地蔵の前の桜の花びらを、何処かへと運び去ったのであった。

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 領主は、目を開けた。そして、目を開けたまま、なお、その地蔵に向かって合掌
を続けた。その時、領主は、不意に、背後に居る罪人の存在を意識したのであった。

                           

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 領主は、我に返った。風の中で、領主は、今日、自分がここに来た理由を思い出した。領主は、心を決め、地蔵に向かって合わせてゐた自分の手を下ろした。そして、ゆっくりと後ろを向き、自分の背後に居る、土牢の罪人を振り返ったのであった。                                                    


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 領主は、先ほどと同様、牢に座る罪人と向かい合った。罪人は、領主が地蔵に手を合わせてゐる間も、領主の背中をじっと見つめて居た様だった。風が、再び、領主の足元の桜を舞わせたが、領主は、今度は、それらの花びらに気を取られなかった。
 領主は、不動のまま、土牢の中に座る罪人を見つめ、罪人も、正座したまま、牢の前の領主を見つめ続けた。ただし、二人は、お互いに、相手の目を見ようとはしなかった。二人は、お互いに、相手の全身を見つめ、共に、そこで、不動の姿勢を取り続けたのだった。二人は、そうして、そこで、永久に、不動の姿勢を取り続けるかの様に思はれた。住職は、二人のその様子を、まるで、決闘を見守る様に、見守り続けた。


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 すると、風が止んだ。そして、静寂が辺りを包んだ。その静寂に、領主は、不意に、これ以上ここに居る事が、無益である事に気が付いたのだった。
 領主は、自分が、これ以上ここに留まっても、この罪人は、泣く事も、許しを請う事もしない事を確信した。そして、自分が、ここで、これ以上罪人と対峙し続ける事は、逆に、この罪人に、勝利感さえ与えかねない事に気が付いたのだった。それは、領主が、ここに来た時、全く予想して居なかった事態であった。

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 領主は、もう一度、頭上を見上げた。そして、木の枝の間に広がる春の空に、夕方の気配が漂い始めてゐる事を悟った。それから、領主は、視線をゆっくり、その空から降ろし、土牢の中の罪人に、もう一度、その視線を投げ掛けた。だが、領主が予想した通り、領主が空を見上げて居た間に、罪人の様子が変わって居る事は無かった。領主は、丘の上で続く花見の事を思ひ出し、帰らねば、と、思った。
 領主は、罪人に背を向けた。そして、無言で土牢と反対の方向に、つまり、寺の本堂に戻る道の方を向き、そちらへ、足を踏み出した。住職は、それを見て、一気に、緊張から解放された。これで終わった、と、住職は、思ったのである。
 だが、次の瞬間、領主は、その場で、不意に、その足を止めたのであった。

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 領主は、土牢の周りに、桜の木が見当たらない事に気が付いたのだった。そして、それにも関わらず、土牢の前が、桜の花びらで、一面蔽(おお)われてゐる事に、領主は、気付き、不思議に思ったのだった。
 領主は、もう一度、後ろを振り返った。罪人は、矢張り、そこに居た。罪人は、その一面の桜を前に、土牢の中で正座して、じっと前を見詰め続けたままだった。それを見て、領主は、すぐに前を向き、再び、元の道を歩き始めた。そして、領主は、もう二度と後ろの罪人を振り返ろうとはしなかった。だが、本堂に向かうその道を歩く間、領主は、自分の心の中に、言い知れぬ屈辱感と、今日、ここへやって来た事への後悔の念が沸き起こるのを、どうする事も出来無かったのである。

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 土牢から戻った領主は、寺の本堂へと寄った。そこで、領主は、縁側に座り、茶
を所望した。間も無く、茶が運ばれると、領主は、その茶の器(うつわ)を両手で
持ち、ゆっくりと、茶を飲み干した。そして、その茶碗を手にしながら、領主は、
しばらく、無言で、何事かを考え続けたのだった。
住職は、その領主の横で、縁側に正座し、領主が何事かを言うのを待った。だが、
領主は、無言であった。その為、住職は、再び不安に襲われた。日は傾き、日没が近ずいてゐたが、領主は、縁側に腰を掛けたまま、茶碗を抱き、寺を去ろうとしないのだった。             
                           

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 領主には、罪人の心が読めなかった。一体、何故、あの罪人は、自分を前にして、あの様に落ち着いて居られたのだろうか?そして、何故、あの様に満ち足りた表情を浮かべて居られたのだろうか?領主には、それが驚きであった。今日、ここに来て、領主は、あの罪人の様子が、領主が思い描いゐた様子と余りに違う事に驚き、打ちのめされる思いをしたのであった。そして、領主は、そんな自分の驚きを、あの罪人は、自分の表情から読み取ったのではないか、と考え、それを何より恐れたのであった。それでは、自分は、一体、何の為にここにやって来たと言ふのか!と、領主は、思はずには居られなかった。

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 領主は、その屈辱を心に秘めながら、手の中の茶碗を見つめ続けた。が、そうする内に、領主は、もう、行かねば成らない事を悟った。領主は、茶碗を縁側に置き、横で正座し続ける住職に、一礼をした。そして、「茶を馳走に成った。」と言うと、履物を履いて、ゆっくり、自分の馬の方へと向かったのであった。
 住職は、そこで、もう一度、深々と手をつき、来訪への礼を述べた。それから、住職は、座を立ち、馬に向かう領主を後を追った。そして、領主が、馬に近ずき、乗ろうとした時である。領主は、不意に、体を止め、馬に乗るのをやめて、住職を振り返ったのであった。
 住職は、何事かと思った。すると、領主は、住職の目を見ながら、ゆっくりと、こう尋ねたのだった。
 「あの者は、いつも、ああしておるのか?」
 突然の問い掛けに、住職は当惑した。が、住職は、その場で領主に頭を下げながら、すかさず、「はい。」と、答えたのであった。
 領主は、馬のたずなを手に持ちながら、その場で無言で考え込んだ。それから、再び、住職に尋ねた。
 「いつもか?」
 「はい。」
 住職には、領主が、何を聞こうとしてゐるのかが、解らなかった。が、領主は、そんな住職の様子には構わず、更にこう尋ねたのだった。
 「牢で何をしておる?」
 住職は、胸に動悸を感じながら、答えた。
 「写経などをしております。」
 領主は、何も答えなかった。そして、短い間考え込むと、こう尋ねた。
 「それが、あの者の楽しみか?」
 領主には、何者にであれ、写経を禁じる事などは、思いも寄らなかった。迷信深い領主には、その様な事をすれば、自分と自分の身の内に仏罰が下ると信じて居たからである。だが、住職は、領主のこの問いに、領主が、罪人から写経を禁じようとしてるのではないか?と思ったのであった。



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