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2007年6月26日 (火)

桜(『第一集・第一話』)


                桜・第一集・第一話

                      1


  昔、或る国に一人の罪人が在った。罪人と言っても、真(まこと)の罪人にはあらず、無実の罪にて捕らえられた、 その国の名高い武士であった。
 七年前の桜の頃の事である。その春、その国の領主に、家臣の間に謀反(むほん)の企てが有るとの密告をした者が有った。その密告は、偽りであったが、その様な密告が為された理由は定かでない。しかし、その密告は、謀反を企てたるは、その武士であると名指しした為、領主は、武勇の誉れ高く、家臣の間に人望厚いこの武士を、花見の席で捕らへさせたのであった。
 真実を言うならば、武士は、領主の家臣の中で最も高潔な、最も信頼すべき人物であり、もちろん、謀反など企てた事は無かった。しかし、領主は猜疑心深く、人の心を知らぬ人間であった。その為、領主は、愚かにもこの偽りの密告を信じ、自らが最も信頼すべきこの武士を謀反人と信じ、捕らえさせたのであった。
 領主は、武士の妻と二人の子を捕らえさせ、城の者に斬殺させた。そして、武士自身については、武士をあえて殺さず、城下の寺の墓地に在る土牢に幽閉し、そこで、死よりもつらい苦しみを与える事としたのであった。
 こうして、武士は罪人とされ、土牢の中で生かされ続ける事と成ったのであった。領主は、こうする事で、武士が領主に自刃する事を懇願すると信じた。そして、それを懇願させ、許す事で、ただ一言の弁解もせず、泣く事もせず、無言でこの運命を受け入れたこの武士に、その時、自分が初めて勝利出来ると思ったのである。だが、罪人は、領主に自刃を請おうとはしなかった。罪人は、その土牢の中で、生き続ける事を選んだのであった。
 そうして、七年の時が流れた。その国に、再び春が訪れ、城下の所々で、今年も、桜が咲き始めて居た。

                     2


 風が鳴って居た。夜から聞こえた、その風神のうなりの様な風の音に、罪人は、春の訪れを知った。
 空気は冷たく、朝晩には、まだ冬の様な冷気が感じられる日が続いていたが、その風の音に、罪人は、土牢の外に春が来た事を知った。そして、その朝、土牢の外が白み始めると、罪
人は、土牢の前の黒い地面を見つめ、そこに、或る物が無いかと目を凝らした。それは、毎年、春の初めに、風がその土牢の前に運ぶ、春の知らせに他成らなかった。
 罪人は、それを見つけた。そして、春が訪れた事を確信した。外の世界で、又、一年の時が流れたのである。
 罪人が目を凝らして地面の上に探し、見つけた物は、白い桜の花びらであった。風で運ばれて来た幾枚かの白い花びらが、罪人が入れられた土牢の前の土の上で、風に舞って踊って居る。それを罪人は、今年も、その日の朝の光の中で見つけたのであった。土牢は、寺の墓地の外れに在り、近くに桜の木は無い。しかし、毎年、風が、遠くから、桜の花びらをこうして運んで来るのである。そして、風は、今年も、そうして、この土牢に桜を運んで来た。それは、土牢が谷間に在り、遠くで風が散らした花びらが、風の吹き溜まりであるその場所に運ばれて、いつまでもそこに留まり続けるからなのであった。風は、そうして、毎年、罪人の入れられた土牢の前に桜の花を置いて行くのである。
 その春の風の音を罪人は、毎年、牢の中で、耳を澄ませて待ち続けるのであった。そして、その風が、桜の花びらを土牢の前に運んで来るのを、牢の中で、待ち焦がれて居たのであった。


                      3


 その朝、住職は、いつもの様に、墓地の小道を一人、罪人の土牢へ と向かって居た。
 その道は、墓地の墓の間を抜ける道であったが、途中下り坂と成り、小さな梅林を抜けて、谷間に在る、この寺のより古い墓地に通ずる道であった。その道を住職は、もう七年間も通い続けて来たが、それは 住職の日課であった。
 その日の朝も、住職は、そうしてその道を土牢へと向かって居たが、 住職の頭上では、風が激しく鳴って居た。空は晴れ、青空が広がって居たが、その風は、嵐の様であった。地面の上では、木々の影が激しく動き、光と戯れながら、住職の行く道を先回りして居た。その木漏れ日の踊る道で、住職は、ふと、足を止めた。足元に、桜の白い花びらが、有ったのである。見ると、それは、一枚だけではなかった。住職が歩くその道の所々に、まだ数は少ないが、白い桜の花びらが誰かが撒いた様に落ちて居るのであった。そして、風が吹くと、それらの白い花びらが、木漏れ日の中で場所を変え、或いは変えずに土の上に留まるのを住職は見たのだった。
 それらの白い花びらを見て、住職は、何処かで桜が咲いた事を知った。この寺の鐘楼の横にも桜の古木が有るが、その桜は遅咲きで、今年も、まだ咲いては居なかった。ならば、この花びらは何処から来たのだろう?と住職は思った。この花びらは、何処か遠くから、風が運んで来たに違い無かった。恐らくは、桜の名所である近くの丘から運ばれて来た物と思われたが、もしかすると、もっと遠くの、城の堀の側の桜から運ばれて来たのかも知れなかった。それは、想像する他は無かったが、住職は、今年は、桜が咲くのが少し早い事に気が付いた。そして、木漏れ日の中で立ち止まったまま、土牢に居る罪人は、桜が 咲いた事に気が付いて居るだろうか、と思った。
 住職は、毎春、風が桜を運んで来る度に、そうして、それらの桜の 花びらが何処から来るのだろうと思うのであったが、それは、桜にし か分からぬ秘密なのであった。

                           

                     4


     土牢の前には、風が、もう随分桜の花びらを運ん
 で来てゐた。住職は、それらの、風が運んで来た桜を踏み
 ながら、木漏れ日が注ぐその土牢の前に、いつもの様に現
 れた。罪人は、住職が、そうして姿を見せる前から、遠く
 から近ずく足音に、住職の訪れに気ずいた。そして、住職
 が現れると、いつもの様に、土牢の中で正座し、訪れた住
 職に向かって深々と頭を下げたのだった。すると、住職も、
 いつもの様に静かに頭を下げた。住職は、そして、自分が
 立つ土牢の前で、足元を見回すと、牢の中の罪人に向かっ
 て、静かに声を掛けた。
 「桜が咲き始めましたな。」
 罪人は、牢の中でうなずいた。
 「今年は、いつもより早く咲き始めた様でござるな。」
  住職がそう言った時、強い風が吹いた。そして、住職
 の足元の桜が、その風に踊った。風は二人の頭上で鳴り、
 やがて、何処か遠くへ去って行った。
 その間、罪人は、静かに座ったままだった。そして、
 微かに微笑を浮かべた様だった。その姿を見て、住職は、
 ふと、六年前、この土牢の前で起きた出来事を思ひ出し
 たのだった。
  それは、この罪人が、無実の咎でこの土牢に入れられ
 て、一年目の春の事であった。その春も、桜は、いつも
 の年より早く咲いてゐた。その、いつもの年より早く桜
 が咲いた春の或る朝、領主の命令で、一年間罪人の世話
 をして来たこの住職は、その前夜、春の訪れを告げる風
 の音を一晩中聴きながら熟考した末に、ついに意を決し
 たのであった。即ち、その朝、住職は、いつもより早く
 土牢を訪れた。そして、食事を運ぶ小僧が本堂に戻った
 事を確かめると、土牢の格子戸を開け、牢の中の罪人に、
 「さ、お出になれい。」と言ったのであった。
 その日も、今日の様に、強い風が吹いていた。そして、
 土牢の地面に正座する罪人に向かって、住職はもう一度、
 「さあ、出られい。」と言ったのである。
 しかし、罪人は、外に出ようとしなかった。そして、
 無言で微笑み、住職に深く一礼を送って、罪人は、その
 ままそこで、まるで瞑想をする様に、目をつぶり続けた
 のであった。
  その時、牢の外では、桜が満開だった。そして、風が
 運んで来た桜の花びらが、いつまでも、住職の足元で踊
 り続けたのだった。

                            

                      5

  住職は、その朝の事を昨日の事の様に記憶してゐた。
 その朝、住職は、罪人を逃せば自分に科せられる咎(とが)
 をも省みず、土牢の木戸を開けたのであった。そして、住
 職は、領主の言いつけに背いて罪人を自由にする以上、
 自分は、その後、桜の花びらが積もる土牢の前で、自刃し、
 領主に詫びる積もりであった。しかし、罪人は、牢を出な
 かった。そして、今も、その牢の中に居るのである。一体
 何故、あの時、罪人は、外に出ようとしなかったのだろう
 か?
  罪人は、その時も、その後も、その理由を語ろうとはし
 なかった。その為、住職は、その理由をただ想像する他は
 無かったのであるが、住職は、はじめ、こう考えた。あの
 時、罪人が外に出ようとしなかったのは、罪人が、住職の
 身を案じたからであると。即ち、住職が、領主の命に背い
 て罪人を逃がせば、領主が住職に迫害を加える事は明らか
 である為、又、そうである以上、住職は死を覚悟して居る
 に違い無い事を罪人は知って居るからこそ、罪人は牢を出
 なかったのであると。そう住職は思ったのである。住職に
 は、それ以外の理由は考えられなかった。そして、そう信
 じて、罪人の心に打たれた。しかし、時が経つに連れ、住
 職は、あの時罪人が牢を出ようとしなかったのは、実は、
 他に理由が在ったのではないか?と思う様に成ったのであ
 った。罪人は、もちろん、住職の事をも案じたには違い無
 かった。しかし、住職は、それだけが罪人が牢を出なかっ
 た理由ではない事に気が付いたのである。即ち、罪人は、
 あの時、住職の身を案じて土牢を出なかったのではなく、
 既に自分の選択として、土牢の中で生き続ける事を選んで
 ゐたのではないか?つまり、罪人は、最早、土牢に入れら
 れた事をただ自分の不幸な、悲惨な運命として耐えてゐる
 のではなく、自らそれを選んでいるのではないか?と住職
 は、思ふ様に成ったのであった。それは、罪人の領主に対
 する戦いに違い無かった。
  罪人は、領主が与えた過酷な運命から逃げようとせず、
 それどころか、その過酷な運命を自ら選択し、土牢の中で
 生き続ける事で、領主と戦い続ける事を選んだ事に、住職
 は、気が付いたのである。住職は、そう思う様に成った。
 しかし、そう思ふ様に成っても、そして、あの朝を思い出
 させる桜の季節が来ても、罪人にそれを尋ねる様な事は、
 もちろん、しようとしなかった。その代はりに、住職は、
 毎朝、墓地の奥に在るこの土牢に通い続け、春が来れば、
 こうして罪人に、外の世界で桜が咲いた事を語り、それを
 喜び合ふばかりなのであった。

                       6

 不思議な事であったが、住職の心の中には、いつの頃からか、あの朝、罪人が牢を出なかった事を密かに喜ぶ様な、奇妙な感情が宿っていた。それは、あの時、自身の生命と引き換えにしてでも、罪人を逃がそうとした、この住職の心情を思い起こせば、はなはだ奇妙な感情であるに違い無かったが、その奇妙な感情は、時と共に、住職の心の中で、次第に大きく、そして、自身の自然な感情に成りつつあったのである。それは、まるで、住職が、あの朝、罪人が逃げない事を確かめる為に、土牢を開けたかの様な錯覚すら生む、まことに奇妙な感情であった。住職は、あの朝、牢が開けられたにも関わらず、そこを出ようとしなかった罪人に心を打たれ、罪人への畏敬を深めたのであったが、その結果、住職は、自分が、この罪人の身近に居る事を自らの誇りと思ふ様に成ったのである。それこそが、住職が、あの朝、罪人が牢を出ず、その後も自分の身近のに居る事を密かに喜ぶ気持ちの理由に他成らなかった。
 住職は、あの日以来、二度と再び、罪人に牢から出る事を勧める事も促そうとはしなかったが、それは、住職の罪人に対する深い畏敬の表れに他成らなかった。その代わりに、住職は、その事件の翌日から、毎日無言で土牢の前に現れ、そこに座し、土牢の前に在る自然石を鑿(のみ)で彫り始めたのである。数か月後、その石は、一体の地蔵と成った。その新たに彫られた地蔵を見て、罪人は、土牢の中から、無言で手を合はせた。それは、明らかに、住職が、領主に斬られた罪人の幼い息子の為に彫った地蔵であった。罪人は、それから毎日、朝夕にその地蔵を向き、牢の中で念仏を唱えたが、その地蔵は、明らかに、罪人に土牢を出る意思が無い事を知った住職が、最早、牢の外で子を供養する事の無い罪人が、せめて、牢の外の地蔵に手を合わせ、供養出来る様にと、彫ったものであった。その地蔵の顔を見て、罪人は、三途の川に居るのは、領主に斬られた子ではなく、その土牢で生き続けようとする自分自身である様な錯覚を抱いた。
 そして、あの時、自分が、住職が開けた土牢を出なかった事は、三途の河原で石を積む子供が、地蔵の慈悲を拒んだ様な行為であったかも知れないとの思いを、罪人は、その後もしばしば抱く事が有ったのである。その様な思ひを抱きながら、罪人は、土牢の中で、幾度も春を迎え、送った。そして、今年も、風は、土牢の前に桜を運んで来たのであった。

                       7

 その朝も、住職は、いつもの様に地蔵に向かい、読経をした。そして、読経を終えると、住職は、数珠を手にしたまま、静かに後ろを振り返った。住職の後ろでは、罪人が、いつもの様に、土牢の中で正座し、住職が読経を終えてからもなお、目を閉じたまま、その地蔵に向かって両手を合わせていた。罪人のその姿を見て、住職は一瞬、目を閉じた。そして、何事かを思うと、再び振り返って、その小さな地蔵を見つめた。地蔵の前には、風が運んだ桜の花びらが数枚散らばり、まるで誰かが捧げた様に、その土の上を飾ってゐる。その土の上の花びらを見つめながら、住職は、春の再来を知り、心の中で喜んだ。住職は、そして、かつて自分が罪人を逃がそうとした春の朝を思い出したが、その事は、もちろん、口にしなかった。住職は、その代わり、その春、自分が掘ったその地蔵に向かって、もう一度心の中で合掌し、あの世に居る罪人の子にその桜をお届け下さいと願じたのだった。すると、風が吹いた。土牢が掘られたその低い崖の上には木が鬱蒼と生い茂っている。その木々は、多くが、冬も緑をたたえていたが、その風に、崖の上の木々は、揺れて、海鳴りの様な音に包まれたのだった。その音に住職は、驚かされた。風は朝から吹いていたが、それが少しやんだと思われた矢先、その風が吹いたからである。そして、その風の音に、住職は、思わず、頭上を見上げた。見ると、住職の頭上には、風に揺れる木々の枝とその枝の網の上に広がる青空が有った。そして、その晴れた青空を、鷺(さぎ)の様な白い雲切れが二つ、天で戯れる様に変えながら、音も無く、南から北に、渡っていくのを、住職は見たのである。その雲を見ながら、住職は、天は何と高いのだろう、と思った。そして、その天の底に立ち尽くしながら、目を雲から地面に落とした時、住職は、先程自分があの世に居る罪人の子供にお届けあれと願じた地蔵の下の花びらが、その風に運び去られて、もう地蔵の足元から消えている事に、気が付いたのだった。

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 それから数日は、穏やかな日が続いた。空気は冷たかったが、それはもう冬の冷気ではなかった。風は吹いたが、最初の嵐の様な風は、もうやって来なかった。代わりに、穏やかな風が、罪人の土牢を訪れ、頭上の梢で何かをささやき、訪れた新しい春を祝福していた。梢の上には、青空が有り、白い綿雲が、南から北へ、その空を絶えず流れて居たが、空は曇らず、晴れた日が、その数日は、続いたのであった。風は、桜を運んで来た。そして、その桜を土牢の前に置くと、再び何処かへ
と去って行った。風は、毎日そうして桜の花びらを罪人の前に運んで来たが、それは、まるで、風が、何処か遠い場所から桜の花びらを運んで来て、罪人が居る土牢の前に置き、そして、すぐにその遠い場所に戻って、また花びらを運んで来るかの様であった。そして、その運ばれた花びらは、時々、思い出した様にその風によって黒い土の上を動き回り、新しく運ばれた花びらと混じり合ひ、次第に、数を増やして行くのであった。
時には、そこで、小さなつむじ風が起こる事も有った。花びらは、そのつむじ風の一部と成って、罪人の前で回り、やがて、止まった。それは、まるで、罪人の前で、姿の見えない子供が遊び、はしゃいでいる様な光景であった。そして、その小さなつむじ風は、時には、罪人の居る牢の中にも、気まぐれに入
り込み、牢の土の上に花びらを置く事も有るのだった。罪人は、毎朝、住職が牢を去ると、一人と成った。そして、いつもは、牢の中で書物に向かったり、写経をしたりして時を過ごすのだったが、毎春、桜が咲き、自分の居る土牢の前が桜の花で覆われるこの数日は、そうした事をせず、ただじっと、目の前の土の上の花びらを見つめて時を過ごす事が多く成るのだった。そして、時々吹く風の音に耳を澄まし、その風と共に、地面の上をうごめく木の影を見つめて、春の日を過ごすのであった。毎春、土牢の前が桜の花びらで埋まる時、罪人は、幸福だったのである。

 

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 罪人の前で、花は、踊った。牢の前の土の上で、白い桜の花たちは、くるくると回り、罪人にそこにおいでと誘い続けた。木漏れ日が、その遊びに加わり、風と光と桜の花びらが、三人の子供の様に朝から夕方まで、目の前で遊ぶのを、罪人は、毎日、飽きずにながめ続けた。時折、遠くの木々が、海の様に音を立てると、罪人は、その音に耳を澄まし、目の前で
回るその花びらたちがやって来た、遠い場所の光景を心の中に思い描いた。
 土牢に入れられてから、罪人は、思い出をいつくしむ様に成った。この寺の周囲は、罪人が生まれ育った土地である。そこは、城の近くであり、近くには、罪人が、幼少の頃、兄弟と遊んだ寺の境内も有れば、若侍と成り、弓を射た場所も有った。そして、領主の家臣として、罪人が住み、子の成長を見守った家も、全てが、この土牢から遠からぬ場所に有ったのである。
 この城下に生まれ、この城下で生きて来た罪人にとって、この寺の周辺は、その様な思い出に満ちた土地であった。しかし、この土牢に入るまで、罪人は、そうした、この辺りの光景をさほどいとおしい物とは思って居なかったのである。それが、この土牢に入れられてから、罪人は、かつては余りに身近であった為、何とも思わなかった、この辺りの風景をいとおしく思い、心の中で、思ひ描く様に成ったのであった。
 春が訪れ、桜の花が、風に乗って運ばれて来ると、罪人は、その花たちが咲いて居た桜の木々を思い描き、この辺りの春の光景を想像した。そして、それらの場所で出会った、甘美な思ひ出を心に浮かべて、風の音に耳を傾け続けるのであった。

                            


                       10

 そんな、罪人が牢の中で思い浮かべる風景の一つに、城の近くの丘が有った。
 それは、城を出て、少しばかり行った場所に在るゆるい丘で、見晴らしが良く、そして、丘全体が、桜の古木に覆われた、風光明媚の場所であった。
 春に成ると、その丘は、満開の桜に覆われる。そして、その地面は、散った桜の花で一杯に成る。その上、その丘からは、城外のあちらこちらに咲く桜を遠望出来る為、そこは、この辺りの花見の名所に他成らなかった。
 罪人は、子供の頃、その丘を駆けて遊んだ。そして、親と成ってからは、春に成ると、妻と子を、そして今は亡い母を連れて、その丘に出掛けたのであったが、その丘は、領主が、毎春、家臣と側室を連れて、盛大な花見を催す場所でもあった。即ち、領主は、毎春、桜が満開と成ると、その丘に家臣と側室を多数連れて出掛け、その丘の一角で花見を行なう事を常としたが、領主の家臣であった罪人は、七年前の春、まさに領主が催すその花見に毎年の如く加はった際、まるで騙し討ちの様に、突然、桜の下で捕えられ、この土牢に入れられたのであった。
 その為、罪人は、牢の中で、その丘の光景を思い出す時、自分の心の中に、その丘に咲いた満開の桜の光景とともに、特別な感情が沸き起こる事をどうする事も出来無かった。そして、自分の居る土牢の前に風が運んで来る白い桜の花びらを見る時、罪人は、その花の多くが、土牢から遠くない、その丘から運ばれて来たに違い無い事を思い、その春の丘の光景を想像せずには居ないのであった。


                      11

 領主は、その年も、花見に出掛けた。いつもの春と同様、領主は、家臣と側室を連れ、城からほど遠くないその丘で花見を催し、新しい春の訪れを楽しもうとしてゐた。桜は、満開であった。領主は、その満開の桜に包まれた丘の一隅の、最も景色の良い場所に、花見の場を設けさせ、茶を立て、酒を楽しみ、そして、猿楽に興じる事を毎春の常として居た。そして、今年も、領主は、そうして丘の一隅で花見を催し、家臣や側室と共に、春の一日を過ごそうとしたのであった。その日は、風は有ったものの、空は晴れ、数日前までの冷気も失せ、まさに、
花見日和(びより)の日と成った。領主は、例年同様、多くの家臣を連れ、客人らを招き、桜の下で、自ら茶を振る舞った。そして、その満開の桜の下で、自ら猿楽を舞って、満悦であった。ただ、寄る年の為か、酒が、早く回る様に成った事に領主は驚き、心の中で苦笑せずには居られなかった。
 花見がたけなわの時、領主は、静かに座を立った。花見の酒が回り、領主は、ふと、一人に成りたく成ったのである。領主は、伴の者に「構ふな」と言い、客達の円座を離れて、満開の桜の下を一人歩こうとした。が、それでも伴の者が来るのでそれを叱り、ようやく、領主は、少しだけ、独りで桜の下を歩く事が出来たのであった。

                      12

 領主は、一同の座を離れ、独り、桜の下を歩いた。そして、一同が花見を続ける場所を少し離れたその丘のゆるい斜面に出ると、そこに在る桜の古木の一つの下で、その足を止めた。そこは、見晴らしの良い場所で、そこで立ち止まった領主の目の前には、丘のふもとの野の光景が、南に向かって広がってゐた。
 それは、まだ冬枯れのままの萱原(かやはら)と、水の引かれていない冬のままの田が広がる早春の野の光景で、その所々に、竹薮(たけやぶ)や林が在り、そして、茅葺(かやぶき)の家々が散在して居た。そして、その山水画の様な光景の所々に、白い花を満開に咲かせた桜の木々が咲いているのが、領主が立ったその丘の斜面から見渡されるのであった。
 領主は、以前にも、この場所に立って、この春の野の光景を見やった事が有った。領主は、その同じ光景を見ながら、自分が、毎年、この丘の上で花見を催して来た事を改めて想起したが、その時、領主の心に生じた感情は、感慨と言ふよりは、むしろ、寂寥に近い、空虚な感情であった。「又、一年が過ぎたのだ」と領主は思った。そして、この丘で花見を催す毎に、その事を思う自分を心の中で自嘲しながら、桜が所々に咲いた、その早春の野を見つめ続けた。耳を澄ますと、その明るい野のあちらこちらで、鳥が鳴いているのが、領主が立っている丘の斜面からも耳にする事が出来た。それは、冬の間は聴く事の出来無かった、歌う様な、明るい鳴き声であったが、何か不安げな鳴き声の様でもあった。その鳥の声を聴きながら、領主は、何処かで人の声が聴こえないかと耳を澄ました。だが、人声は聴かれなかった。そして、その風景の何処にも、その時、人の姿は見られないのであった。全ては、明るく、光に包まれていた。だが、その風景は人気(ひとけ)が無く、領主は、寂寥を感じずに居られなかった。領主は、一同の居る場所に戻ろう、と思った。花見は、今がたけなわであった。もう一度、一同の前で猿楽を舞い、それから、更に杯を重ねようと考えて、領主は、野を背にし、花見の座へと戻り始めた。ところが、その時、領主の心に、七年前、この丘で催した花見の席で、自分が捕えさせたあの罪人の事が、不意に浮かんだのであった。


                     13

 領主は、罪人の事を忘れていた。が、今、突然、七年前、自分が、寺の土牢に入れた、あの罪人の事を思い出し、その場で、足を止めたのであった。
 領主は、あの罪人が死んだとは聞かされていなかった。そして、去年の春、あの罪人が生きている事を聞き、心の中で嘲笑した事も有った。だが、この一年の間は、あの罪人の事を思い出す事は、一度も無かったのである。それが今、領主の心に、あの罪人の事がよみ返り、一体、今、あ奴はどうして居るだろう?と言ふ思いが、まるで雲の様に、領主の心の中に、湧き上がったのであった。
 領主は、自分の心に驚いた。そして、その場で後ろを振り返り、丘の下に広がる春の野を見渡した。それは、先ほどと全く変わらぬ光景であった。が、領主は、その同じ光景に、先ほどとは全く違う何かを感じて居たのである。

 次の瞬間、領主は、今から馬に乗り、あの寺で、土牢に入れられたあの男に会ふ事を心に決めていた。

                           

                     14

 領主は、白馬に跨り、丘を下った。領主が、花見の座を離れると言ったので、会席した一同は、その言葉を不審に思った。が、領主は、少し馬に乗りたく成ったのだと言い、一同に花見を続ける様にと言った。そして、すぐに戻るからと言い残すと、数名の武者を引き連れて、あの罪人が居る寺へと向かったのであった。領主が乗った白馬は、満開の桜の下を駆け、ゆるい斜面を下って、あの寺へと向かった。領主が先頭を走り、供の者たちは、それを追ったが、誰も、領主が、急に寺に向かおうとする理由は知らなかった。供の武者たちは、そうして、理由も知らされぬまま、ただ、領主の白馬を追って、馬で、共にあの寺へと向かったのであった。寺に向かう坂道には、木漏れ日が踊り、桜の花びらが、そこかしこに散って居た。領主とその供の者たちは、その坂を速足で駆け、寺へと向かったが、馬の名手である領主は、供の者たちより先にその坂を下り、後に続く家臣たちよりもずっと先を、一人駆け続けたのであった。やがて、領主は、寺の前に到着した。領主は、そこで馬を降り、久しぶりに訪れたその寺の山門の前に立った。領主は、辺りを見回したが、その風景は、領主が、最後にここに来た時と何も変わっていなかった。辺りの木々も、山門も、そして、その山門に在る古い仁王たちの姿も、時の流れが止まって居たかの様に、そのままであった。領主は、そこで、その山門の仁王たちを見上げ、その変はらぬ姿を無言で見つめ続けた。間も無く、供の武者達の馬が、到着した。供の者たちは、領主が余りに速く馬を駆けたので、不覚にも、遅れを取ったのであった。だが、領主は、後から到着した供の者たちには構おうとしなかった。その代わり、先に寺の前に着いた領主は、山門の前に立ち、無言のまま、そうして、そこで、その古い仁王たちを見つめ続けて居るのだった。そこで、到着した供の者の一人が、山門から寺の境内に入り、大きな声で、寺に領主の訪問を告げた。その武者の声が春の寺に響き、寺の者が姿を見せた時、領主は、ようやく、その古い仁王たちから目を離し、境内に足を向けたのであった。

                           


                      15

 領主が、突然寺を訪れたと言う知らせに、住職は、驚かされた。住職は、寺の者たちに、領主を迎える様命じたが、その時、住職は、胸騒ぎを覚えずには居られなかった。
しかし、住職が、境内で領主を伏して迎えた時、領主は上機嫌で、住職と寺の者達に向かって「構うな」と言い、住職に不意の来訪を詫びたのだった。そして、領主は、その境内で、鐘楼の横に咲く、桜の古木を見上げ、住職に、その満開の桜の見事さについて語り掛けたのであった。住職は、寺の者達と共に、領主の足元に伏しながら、領主の言葉を聞いた。そして、領主の言葉に謝辞を述べたが、そうして、境内の地面に伏して領主の言葉を聞きながら、住職は、領主が、ただ、この鐘楼の横の桜を見る為にここに来たのだとは、思えなかった。やがて、その桜の話をする内に、領主は、ふと黙った。そして、住職に「面を上げい。」と言うと、機嫌良さそうに、「ところでの。」と言ったのだった。住職が、境内に伏したまま顔を上げ、「は。」と答えると、領主は、住職のその顔を見つめ、静かに問い掛けた。「あの者はどうしておる?」領主は、住職の顔をじっと見つめて居た。

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