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2007年6月26日 (火)

桜(『第一集・第一話』)


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 領主は、住職を見つめた。その視線に、住職は、思わず答えた。
「桜で御座居ましょう。」
「桜じゃと?」
 領主は、目を丸くした。住職は、ただ、領主が、罪人から牢の中での写経を禁じる事を恐れたのである。その為に、住職は、罪人が、写経などには関心が無いかの様に思はせようとしたのだった。
「牢の周りに桜など無いではないか?」と、領主は、問い返した。領主のその問いに、住職は、頭を低くしながら、答えた。
「御座居ませぬ。しかし、風が、遠くから、花を運んで来るので御座居ます。」
領主は、狐につままれた様な顔をした。が、領主は、住職が言ふ通り、先程自分が訪れたあの土牢の前が、白い桜の花びらで埋もれてゐた光景を思ひ出し、はっとしたのであった。
                          

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 住職は、言葉を続けた。
「毎春、桜の頃と成りますと、桜が、あの牢の前に、吹かれて来るので御座居ます。それを、あの者は、何よりの楽しみにしてゐるので御座居ます。」
領主は、言葉を発しなかった。
「恐らくは、殿がお花見をなさりますあの丘の桜が、風に吹かれて、来るので御座りましょう。あの墓場の奥の、土牢の前辺りに、花が溜まるので御座居ます。」
住職は、領主の心が読めぬまま、その言葉を続けた。
「楽しみと言えば、それ位(くらい)かと。他には、何も無いかと、拙僧には思はれまする。」
 そう言ふと、住職は、言葉を切って、領主の表情を窺(うかが)った。

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 領主は、無言だった。無言のまま、領主は、その場で動こうとせず、何事かを考え込み始めてゐた。
 その反応が、住職には意外であった。住職は、領主が、住職の答えにこの様な反応を示し、この場を去ろうとしなく成った事に、当惑せずに居られなかった。住職は、領主に、あの罪人には、楽しみなど何も無い事を言おうとしただけであった。その為に、住職は、あの罪人には、楽しみと言へば、春に、風が運んで来る桜の花びらぐらいしか無いと言おうとしたに過ぎなかった。しかし、今、住職の目の前で、領主が、住職のその言葉を聞いて、考え込んでゐる事に、住職は驚き、一体、自分の言葉が、領主の心の中に何を生じたのかと、思はずに居られなく成ったのであった。
 すると、遠くで、鳥が鳴いた。その声に、領主は、ゆっくりと、我に帰った。そして、ようやく、元の表情に戻ると、夕方の気配が漂ひ始めた、自分の頭上の空を見上げて、「そうか。」と、小さくつぶやいたのであった。
    


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 領主が見上げた空の一隅には、夕暮れの雲の切れ端が浮かんでゐた。
 その小さな雲は、頂度、桜の花びらの様な色に染まり、桜の花びらの様な形をして、その青い空に漂ってゐるのだった。  領主は、その夕焼けに染まった春の雲を、水に浮かぶ花びらの様に見つめながら、ようやく、自分の白馬に跨(またが)った。そして、はやる馬を制しながら、自分を見送ろうとする住職を見下ろして、もう一度、「馳走に成った。」と、茶の礼を言った。
 住職は、その場で、深々と頭を下げた。すると、早駈けの名手である領主は、「どう」と言って、馬に合図を与え、そこを駆け出した。続いて、従者達の馬が、次々に、領主の白馬の後を追って、花見の続く丘へと向かった。
 彼らの姿は、すぐに見えなく成った。後に残されたのは、そこで彼らを見送った、住職と寺の者たち、それに、寺の山門に立つ、仁王たちであった。


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 そうして、日は暮れた。領主が戻った丘では、かがり火が焚かれ、夜桜の下、猿楽と酒の宴(うたげ)が、夜遅くまで、続けられたのだった。

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 それから数日、城下では、穏やかな日々が続いた。風は、吹き続けたものの、嵐の様な風が吹く日は無く、朝の冷気も、ゆるむばかりであった。
 寺では、いつもの様に、住職が、朝早く土牢を訪れ、罪人と語り合ったが、その際、二人の間で、数日前の領主の訪問が語られる事は、全く無く、そんな来訪は、無かったかの様であった。
 罪人は、住職が本堂に戻ると、いつもの様に、牢の中で写経をし、或いは、書を読んで時を過ごしたが、罪人のそうした様子には、数日前の領主の来訪の後も、何も、変はった処は、無かったのである。

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 そうして、今年の桜は、終わろうとしてゐた。罪人は、牢の前の花びらが減るのを見て、牢の外の桜が終わった事を知った。そして、いつもの年の様に、牢の前に残る花びらを惜しみながら、翌年の桜を想ったのであった。ところが、全てが、いつもの春と変はりが無い、と思はれたその時、異変は、起きたのであった。

                            

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 静かな朝であった。風は無く、空気が、暖かさを帯びたその日の朝、罪人は、いつもの様に、土牢の中で正座し、写経を行なってゐた。
 と、罪人は、筆を持ったその手を止めた。遠くで、何か、音が聞こえたのである。罪人は、耳を澄まし、その音が何であるかを知ろうとした。風は吹いてゐないので、
 罪人は、その音を良く聞く事が出来た。だが、それが何の音なのか、土牢の中の罪人には、直ちに判断する事は出来無かった。良く聞くと、その音に混じって、人の声や馬のいななきも聞こえて来る。・・・「狩りだろうか?」と、罪人は思った。いや、狩りではない、と罪人は思った。狩りの様だが、狩りでは聞こえない、高い音が、遠くから、規則正しい響きと成って、朝の空気の中を伝わって来るのであった。「まさか戦さでは?」とも思ったものの、身を持って合戦を知る罪人の耳に、それが、合戦の音でない事は、すぐに知れた。「一体、あれは、何の音なのだ?」と思ひながら、罪人は、牢の前の土を見つめた。

                           


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 牢の前から、桜の花びらは、もう殆ど姿を消してゐた。土牢の前には、わずかに、数枚の花びらが残ってゐるばかりであった。そのわずかに残された桜の花びらを見ながら、罪人は、牢の中で、遠くから聞こえる、その奇妙な物音に耳を澄ました。そして、間も無く、罪人は、その音が、何の音であるかを悟った。それは、遠くで、木を切る音だったのである。
                          


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 どうやらそれは、あの丘から聞こえて来る様だった。領主が、毎年、花見の宴を開くあの丘から、そして、かつて、罪人が、領主に花見の席で捕えられたあの丘から、その音は、聞こえて来るのだった。その音を聞きながら、罪人は、今、あの丘で起きつつある事を想像した。

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 音は、次第に、はっきりと聞こえる様に成った。木を斧で切ろうとする音が、そして、木の倒れる音が、罪人の澄まされた耳に聞こえ、それに混じって人間の声が、そして、馬のいななきが、遠くからではあったが、はっきりと、聞こえる様に成ったのであった。
 そして、やがて、それに驚くべき音が加はった。それは、火の音であった。火が燃える音が、幽かではあったが、それらの音に混じり、確かに聴かれたのであった。
 それが空耳(そらみみ)でない証拠に、幽かな煙が、そして、その煙に伴ふ桜の木が燃える臭いが、罪人の居る土牢にまで、漂い始めたのであった。

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 罪人は、目を閉じた。そして、目を閉じたまま、牢の中で、何事かを黙考した。
 すると、罪人のその耳に、丘からの音に混じって、墓地の道を、土牢へと近ずく何者かの足音が、聞こえた。
 罪人には、それが、住職の足音である事が分かった。だが、それは、罪人が毎朝耳にする足音とは違う、速足の足音であった。そして、その足音に、不安の音を聞き分けた罪人は、そこで、静かに目を開け、土牢の外を見つめた。すると、罪人の耳が聞き分けた通り、そこに、住職が、速足で、姿を現したのであった。
 住職は、牢の前で立ち止まると、息を切らせながら、罪人の顔を見つめた。そして、その息を鎮めると、罪人に、丘から聞こえる音が何であるかを告げたのであった。

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 住職は、今朝、丘からあの音がするのを聞いて、寺の者に、様子を見に行かせたのであった。その者が、見た事によると、丘は、領主の家来たちとその馬で一杯であったと言ふ。そして、領主の家来たちは、そこで桜の木を切り、切り倒した桜の木々に火を放ち、燃やして居ると言うのであった。
 住職は、その者が語った光景に、戦慄して居た。そして、住職は、あの丘で、その様な事を始めた領主の意図を図りかねて居た。だが、罪人は、住職のその言葉を聴きながら、領主が、何故あの丘の桜を切らせ、火を放たせたかを、良く理解出来たのであった。


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 罪人は、数日前、領主がここを訪れた時の事を思い出してゐた。そして、今、あの丘で起きてゐる事は、あの時、ここで起きた出来事の結果である事を、土牢の中に居ながら、理解出来たのであった。--丘に行き、そこで起きてゐる事を目で見ずとも、罪人には、それが解ったのである。
 住職は、そんな罪人の様子に驚きを抱いた。牢の中の罪人が、丘から聞こえる、木を切る音や、ここまで漂う微かな煙の中で、いつもの朝と変わらぬ、全く冷静な表情をしてゐたからである。罪人は、まるで、何事も起きてゐないかの様に、いつもの朝と同じ、静かな表情で、牢の中に座ってゐたのである。                            

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 罪人は、合掌した。そして、牢の前の地蔵に向かって、何事かを祈った。その地蔵の足元には、まだ、桜の花びらが、まだ数枚残されてゐた。

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こうして、この年の春は、終はった。

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 一年の時が流れた。土牢に再び春が訪れたが、その春は、それまでの春とは違ふ春の様に思はれた。

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