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2010年11月17日 (水)

桜(『第一集・第二話』)

*

                 桜・第一集・第二話

                      1

     昔、或る国に、一人の落武者が有った。その年の春、
    その国で合戦(かっ せん)が有った。三日続いたその
    合戦で、主(あるじ)が敵軍に捕らえられ、自軍が敗退し、
    その武士は、落武者と成った。
     そして、その白馬と共に、敵 の落武者狩りから逃れ
    ようと、森に逃れたのであった。
     落武者は、傷つき、疲れ果てて居た。背には、もう数本
    の矢しか残されて ゐなかった。そして、何より、落武者は、
    一人であった。
     数日前、共に戦っ た自軍の武士達の多くは、合戦で
    命を落とし、或いは、落武者狩りの犠牲と 成って居た。
    そして、生き残った者たちも、散り散りと成り、野をさ迷ひ、
    隣国に逃れる中、その落武者は、わずかに生き残った
    仲間を離れ、一人、 馬と共に、森へと逃れたのだった。
    そして、森を進む内、落武者は、道に 迷ひ、自分が何処
    に居るのかも、分からなく成ったのだった。


                    2

     どれほど森を進んだ時であろうか。落武者は、何処
    からか、風が来る のを感じた。その微かな風に、落武
    者は、森の出口が近い事を予感した。 そして、森の中
    の道を、馬に乗ったまま進むと、落武者は、森が、終は
    る事に気が付いたのだった。見ると、そこは、大きな池
    のほとりであ った。そして、道は、森を出て、その池の
    ほとりに続いて居るのであった。


                    3

     馬は、落武者を乗せて、その池の畔へと出た。
    見ると、その池は、 満開の桜に囲まれて居た。
    そして、その桜を水に映しながら、鏡の 様に、
    静まり返って居るのであった。


                    4

     落武者は、自分の目を疑った。それほど、そ
    こに広がる桜は、見事 だったのである。落武者
    は、自分が、その満開の桜の光景の中に居る
     事に気が付いたのであった。
    「夢を見てゐるのか?」と、落武者は思った。
    だが、それは夢ではないのだった。落武者は、
    馬の背中に乗ったまま、その満開の桜の中を
    岸に沿って進んだ。

                   5

    その満開の桜の中で、落武者は、自分が
   合戦に敗れた事を忘れてゐた。


                   6

    「ここは何処なのだ?」と、落武者は、心の中
   でつぶやいた。 もしかすると、ここは、死者の世
   界か?と、落武者は、自問した。 だが、ここが、
   地獄の様には思へなかった。ならば、ここは極楽
   か?だが、自分は、これまで多くの殺生を重ねて
   来た武者なのだ。 その俺が、数多くの殺生にも
   関はらず、極楽に入れたものなのか? もしかする
   と、この馬と共に、極楽に、ほんの刹那(せつな)
   だけ、 迷ひ込んだのか?と、落武者は、心の中で
   自問した。その間にも、 馬は、静かに、落武者を
   乗せて、桜の下を進み続けた。

                    7

    辺りには、物音一つ聞かれなかった。その静寂
   の中で、落武者は、 著しい疲労に襲はれた。最早、
   馬に乗って居る事も限界であった。
    その桜に囲まれた池の岸で、落武者は馬を止め、
   下馬した。そして、 その場で数歩だけ馬を引くと、
   池辺の桜の下で、地面に倒れ、その まま、その場で
   仰向けに横たわってしまったのだった。


                   8


     落武者は、その桜の下で、深い眠りに落ちた。

                   9

   どれだけ時間が流れたであろうか。落武者は、眠
  りから目覚めた。
   落武者は、ゆっくりと起き上がり、地面の上に座っ
  たまま、辺りを 見回した。そのまどろみの中で、落
  武者は、自分が何処に居るのかを、直ちには思ひ
  出せなかった。落武者は、桜の下に居た。そして、
  辺りには、霧が立ち込めて居た。そして、目の前
  には、静まり返った池が有った。
  「そうであった。」と、落武者は眠りに落ちる直前の
  事を思ひ出した。
  「俺は、合戦に破れ、森の中に逃げ込んだのだった。
  そして、 迷って、この池の畔(ほとり)にたどり着い
  たのだった。」落武者は、そう心の中でつぶやいた。
  そして、自分が居るその池の畔を、見回したのだった。  

                  10

   落武者は、満開の桜に囲まれて居た。落武者の
  頭上も、周りも、 辺りは、桜の花で一杯であった。
  それは、先程、ここに迷ひ込んだ時と全く変はって
  居なかった。ただ、気が付くと、落武者の馬が、
  いつの間にか、そこから姿を消して居たのだった。
  落武者は、周囲 を見回した。だが、自分をここに
  連れて来た馬は、いつの間にか、何処かへ消え
  てしまって居るのだった。


                 11

   落武者は、何処からが現実で、何処からが夢か
  が分からない心持ちで、馬の姿を探した。すると、
  その落武者の目に、池の向こう岸を 歩む、馬の姿
  が、入ったのだった。


                12

   「そこに居たか。」と、落武者はつぶやいた。
  落武者の馬は、その白い姿を池の水面に映し
  ながら、池の向こう岸を、ゆっくりと、 音も無く、
  歩いて居るのだった。


                 13

   落武者は、馬を追おうとはしなかった。落武者は、
  自分の馬が、 対岸を歩くのを見つめながら、心の
  中でつぶやいた。
  「何処にでも行くが良い。」
  馬は、その白い姿をゆっくり移動させて居た。
  「お前にはつらい思ひばかりをさせた。だが、戦さ
  も終はりじゃ。 もうこんな落武者と成った主(あるじ)
  を乗せる必要は無い。何処 へなりと行くが良い。
  苦労ばかりさせたこの主を許してくれ。」
  落武者は、心の中で、そう馬に語り掛けた。そして、
  馬と、池の水に映るその白い姿を幻を見る様に見つ
  め続けた。

                  14

   すると、馬は、姿を消した。落武者の白馬は、池の
  向こう岸の桜の木々の間へと、姿を消した様だった。
  馬は居なく成り、落武者は、池のこちら側で、本当に
  一人きりと成ったのであった。

                   15

   辺りに物音は聞かれなかった。その静けさの中で、
  落武者は、馬が姿を消した池の向こう岸を見つめた。
  池の向こう岸に広がる桜の木々は、合戦の勝敗とも、
  落武者の運命とも無関係に、そこで静かに咲いて居た。
  そして、静まり返った池の水の上に、絶えず、その花
  を散らして居るのだった。

                  16

   落武者には、その向こう岸の桜の光景が、極楽の
  世界の様に見えた。  



         17

  落武者は、その向こう岸の世界へ行きたいと思った。  

                18

   落武者は、その場に座った。そして、静かに、自分の
  刀を手にした。落武者は、刀を右手にしたまま、自分の
  目の前の池を見つめた。池は、静まり返り、鏡の様に、
  池の周りの桜を映し続けて居た。落武者は、その水に
  映し出された桜を見つめながら、自分がこれから向か
  ふ世界の事を思った。      


                19

   落武者は、この世に、最早何の未練も持って居なか
  った。
   戦さに破れ、国を失った自分に、武士として、何が
  残されて居ると言ふのだろうか。落武者にとって、答え
  は明らかだった。自分が、この世で生き続ける理由は、
  最早何も無いのである。自分に残された道は、ここで、
  切腹する事だけである。
   落武者は、早く、この世を去りたいと思ふばかりだっ
  た。落武者は、自分の刀を手に、この桜が満開の池
  の畔(ほとり)で、自ら命を絶つ事に心を決め、前を見
  つめた。
     

                20

    落武者の前には、先程と変はらない、静まりかえ
   った池とその向こう岸に広がる桜の光景が有った。
   その静けさを見ると、人間の世界で起きた争いは、
   まるで無かったかの様であった。落武者は、その
   水面を見つめて、自分のこれまでの一生に思ひを
   はせた。そして、その静まり返った水面を見つめな
   がら、落武者は、鎧(よろい)を外し、腹を出して、
   切腹の用意をしたのだった。落武者は、息を吸ひ、
   目を閉じた。
    
     

                21

     何も聞こえなかった。その静けさの中で、落武
    者は、刀を握った。そして、もう一度、静かに目を
    開けた。落武者の前には、先程と変はらぬ鏡の
    様な池が広がって居た。そして、その池の向こう
    岸の桜の光景も、全く変化して居なかった。
     その光景を目にしながら、落武者が、刀を自分
    の体に立てようとしたその時である。落武者は、
    その池の向こう岸に、何者かが立って居るのを目
    にしたのであった。


                22

     それは、白い衣に身を包んだ女人(にょにん)で
    あった。
     その女人は、池の向こう岸に、満開の桜を背に
    立ちながら、じっと、こちらを見つめて居るのであった。
    その女人の姿に、落武者は、目を奪はれ、体が動か
    なく成るのを感じた。  
         

                23

     落武者は、刀を手にしたまま、その白い衣の女人
   を見つめた。
               

                24

     それは、明らかに、この世の女人ではなかった。姿形は、
    人間の女人であったが、その存在その物が、余りに気高く、
    神々しかったからである。落武者は、刀を手にしたまま、
    そうして、その場で動けなく成った。女人は、池の向こう
    岸から、落武者を見つめて居た。女人は、落武者が、そこ
    で何をしようとして居るかを知って居るかの様であった。
    落武者は、その神々しい何者かに見つめられながら、自分
    も相手を見つめ続けた。   
               

                25

     女人の後ろには、満開の桜の木々が、夢の中の光景の様
    に広がってゐた。
               

                26

     落武者は、刀を離した。落武者は、刀を地面の上に置き、
    その場で正座した。そして、向こう岸の神々しい女人に向
    かって、合掌すると、目を閉じ、何事かを念じた。辺りは
    静まり返ったままであった。その静けさの中で、落武者は、
    そうして、ひたすら、合掌を続けた。    
               

                27

     永い時間が流れた。落武者は、静かに目を開けた。見る
    と、池の向こう岸から、その女人の姿は消えて居た。そし
    て、そこには、ただ満開の桜が在るばかりであった。    
               

                 28

     落武者は、誰も居ない池の向こう岸を見つめた。今、自
    分の前に現れた、あの神々しい女人は、一体、何者だった
    のだろうか?物の怪(もののけ)などではないと、落武者
    は確信して居た。あの様に美しく、気高い姿が、物の怪な
    どの姿だとは、考えられなかったからである。いずれにし
    ても、あの神々しい女人は、今、自分に何かを告げる為に
    現はれ、そして、消えたのである。落武者には、そうとし
    か思へなかった。とすれば、あの神々しい女人は、一体自
    分に何を告げようとして、ここに現れたのだろうか?        
               

                29

     それは、自分に生きよ、と告げる為ではなかったのか?
    落武者は、そう自問し、確信したのだった。      
               

                 30

     落武者は、誰も居ない、池の向こう岸に向かって、合掌
    した。そして、そこに広がる満開の桜の光景を見つめた。   
               

                 31

     桜は、静まり返って居た。そして、その静まり返った桜
    の下に、あの白い衣に身を包んだ女人は、二度と姿を現は
    さなかった。   
               

                32


            落武者は、池を後にした。  


               


                33

     二十五年後の事である。その春、この池の畔(ほとり)
    に、杖を持った一人の僧の姿が現れた。僧は数珠を持ち、
    小声で念仏を唱えながら、森の道を歩み、この訪れる者の
    稀な池を、連れの者も無く、一人、訪れたのであった。空
    は晴れ、池は、青空とその下の満開の桜を映し出して居た。    
               


                34

    僧は、その国の、とある寺の高僧であった。その高僧が、
   伴の者も無く、桜の古木に囲まれた、その池を一人訪れた
   のである。僧は、眼前の池とそれを囲む桜に向かって読経
   し、合掌して、数珠を鳴らした。   
               


      35

 池は、静まり返って居た。そして、青空に浮かぶ雲と満
開の桜を映し出して、その僧を迎えた。   
               

            36

  僧は読経を終へると、満開の桜が広がる池の向こう岸に
 向かって、深々と頭を下げた。そこは、二十五年前、あの
 白い衣の女人が姿を現はし、消えた場所である。その対岸
 の一隅に向かって、僧は、深く頭を下げ、礼をしたのであ
 った。

               

      37

   そこには、誰の姿も無かった。その向こう岸だけでなく、
  その池の周りには、僧以外、誰の人影も無かった。池の周
  りには、ただ、満開の桜が有るばかりであった。
               

            38

   僧は、齢(よわい)六十に近いかと思はれた。僧は、物
  静かな表情をして居たが、その顔には、何か、厳しい物が
  感じられた。そして、その体つきは、その年の者とは思へ
  ぬたくましさが、明らかに残って居た。だからこそ、僧は、
  その年で、この人里離れた池まで、一人、歩いてやって来
  れたに違い無かった。僧は、ここまで歩いてやって来た疲
  れも見せず、その池の岸に立ち続けた。
               


       39

   池は、二十五年ぶりにこの池を訪れた僧を、満開の桜で
  迎えて居た。    
               


              40

   その僧は、二十五年前、合戦に破れて馬と共にこの池に
  たどり着いた落武者であった。落武者は、この池の畔で、
  自ら命を絶とうとしながら、ここで何者かに出会ひ、自刃
  を思ひ留まり、ここを後にした。その後、この落武者は、
  刀を捨て、この国の寺で仏門に入ったのであった。そして、
  その寺で、多くの者に認められ、尊敬を集めた落武者は、
  二十五年の時を経て、この寺の高僧と成ったのであった。
  その高僧と成った落武者が、この日、この池の畔を再び訪
  れたのであった。        
               

              41

   僧は、その池と池を囲む満開の桜を見守り続けた。そし
  て、あの日の事を昨日の事の様に思ひ起こした。
   僧は、あの合戦の日、戦場から逃れ、ここで自刃する事
  を選んだ。だが、自分がここでそれを思ひ留まり、その後、
  この二十五年の年月を僧として生きる事と成ったのである。
   僧は、自分の運命の奇異さを思った。自分のこの二十五
  年の生は、あの時、この岸で自刃する事を思ひ留まった事
  の結果であった。だが、自分が自刃を思ひ留まった理由は、
  思ひ起こすまでも無く、あの時、自刃しようとした自分の
  目の前に、あの白い衣の女人が現れたからであった。あの
  時、自分の前に現れたあの神々しい女人は、一体、何者だ
  ったのであろうか?僧は、それを知りたかったのである。      
               


        42

   僧は、池の向こう岸を見つめた。そこには、あの日と同
  じ様に、満開の桜が広がって居た。僧は、その向こう岸に
  向かって、池の畔を歩き始めた。           
               

               43

   池は、あの日と同様、満開の桜に囲まれ、静まり返って
  居た。           
               

              44

   僧は、あの白い衣を着た女人が現れた岸辺に辿り着いた。
  僧はそこで立ち止まった。そして、その場から、その静ま
  り返った池の水面を見つめた。
   池は、太陽の光を反射して、きらめいて居た。そして、
  その輝く水面には、桜の白い花びらが、無数に浮いて居た。
  その光景に、僧は、「美しい。」と、独り言をつぶやいた。      
              

             45

  僧の頭上には、満開の桜とその上に広がる春の青空が有
 った。風は無く、光と静けさが溢れるその岸辺で、僧は、
 極楽に居る様な錯覚を抱いた。      
               

             46

  「ここは極楽か?」僧は、心の中で自問した。「ならば、
 あの時、何故に自分は、ここまで来なかったのだろうか?」
 僧は、二十五年前、対岸でこの場所を見つめて居た自分の
 事を思った。そして、あの時、ここに現れた白い衣に身を
 包んだ神々しい女人の事を想った。
 「あの神々しい姿の女人は、何者であったのだろうか?」
  僧は、既に二十五年間考え続けて来た同じ問ひをもう一度
 心の中で繰り返した。 
  その時であった。僧は、自分が立つその岸辺の一隅に、
 一体の石仏が有る事に気が付いたのだった。         
               

             47

  それは、馬頭観音であった。岸辺に立つ一本の桜の木の
 根本に、その馬頭観音の石仏が有る事に、僧は気が付いた
 のであった。    
               

             48

  僧は、合掌した。そして、両目を閉じて、頭(こうべ)
 を垂れた後、再び頭を上げて、目を開けた。僧は、目の前
 のその小さな石仏をじっと見つめた。それは、素朴な、そ
 して柔和な顔をした馬頭観音であった。その温かい表情に
 は、微笑(ほほえみ)が浮かんで居た。この人気(ひとけ)
 の無い池の畔で、この様な石仏に出会った事は、僧にとっ
 て、意外であった。僧は、その石仏を見つめながら、誰が、
 この訪れる者の稀な池の畔に、この馬頭観音を置いたのだ
 ろうと、いぶかしんだ。     
               

             49

  その馬頭観音の顔と姿を見つめながら、僧は、何故か、
 深い、懐かしい感情に襲はれた。僧は、思はず、自分はこ
 の馬頭観音を見た事が無かっただろうか?と自問した。遠
 い昔、自分は、この馬頭観音の前に立った事が有ったので
 はないか?と言ふ不思議な感情に、僧は、襲はれたのであ
 る。
  僧は、もちろん、今、初めてこの石仏の前に立って居る
 のである。二十五年前、落武者と成ってこの池に辿り着い
 た時、僧は、向こう岸で自刃しようとした事は有ったが、
 こちら側の岸に来ては居ないのである。だから、僧は、こ
 の場所に立った事は、もちろん、一度も無いのである。そ
 れなのに、この馬頭観音の前で、自分の心の中に起こった
 この懐かしさは、一体何なのだろうか?僧は、不意に自分
 の心に湧きあがったその感情に驚かされた。         
               

             50

          すると、風が吹いた。
              

               

              51

  それは、辺りの桜を微かに動かす微風であった。その風
 は、殆ど音を立てずに、梢に咲く満開の桜を揺らして、そ
 のまま静かに止んだ。僧は、その微かな風を感じた。そし
 て、その静かな風の中で、目の前の石仏の周りに風が運ん
 だ桜の花びらに目を落とした。花びらの上には、その微か
 な風に揺れる木漏れ日が有った。僧は、その地面の上の桜
 と木漏れ日の光景を見つめた。その光景に、僧は、自分が
 生きて居る事の喜びが、心に溢れて来るのをどうする事も
 出来無かった。      
               

              52

  「これは、煩悩なのか?悟りなのか?」僧には、自分の
 心に溢れるその喜びが、仏門に在りながら、まだ修行が不
 足して居る自分の煩悩による物なのか、それとも、修行に
 よって到達した悟りであるのかが、分からなかった。ただ
 一つ明らかな事は、この喜びが、二十五年前、自分がここ
 で自刃を思ひ留まった事の結果であると言ふ事であった。
 そして、それは、あの日、ここに現れた、あの白い衣に身
 を包んだ神々しい女人の導きによってもたらされた物なの
 である。その白い女人が現れた場所で、僧は、今、桜の下
 で、この馬頭観音に対面して居るのであった。僧は、その
 事の意味を思ひながら、その場に立ち続けた。          
               

             53

  「煩悩と悟りは・・」と、僧は思った。
 「実は、紙一重の物なのかも知れぬ。」僧は、そう思ひな
 がら、目の前の馬頭観音を見つめた。石仏は、何も答えな
 かった。答える代はりに、その上で踊る木漏れ日が、その
 馬頭観音が、微笑んで居るかの様な錯覚を僧に与えるばか
 りである。その馬頭観音の姿に彫られた石仏の前で、僧は、
 自分の周りで時間が流れて居る事を忘れた。自分は、その
 止まった時間の中で、永遠に、この桜の下で、この石仏に
 対峙して居られるのではないか?僧は、そんな錯覚に囚は
 れたのであった。
  その時であった。僧は、近くに人の気配が有る事を感じ
 た。誰かが、こちらにやって来る。僧は、自分が歩いて来
 た池の岸を、誰かが、こちらに歩いて来る足音が有るのに、
 気が付いた。そして、僧が、その足音がする方向を見やっ
 た時、その足音の主は、僧の前にその姿を現したのであっ
 た。 

       54
            
               

  それは、樵(きこり)であった。初老の小柄な樵が、池
 の岸を歩いて、この場所にやって来るのに、僧は、そこで
 出会ったのであった。樵は、僧の姿を見ると、少し驚いた
 表情を浮かべた。樵は、立ち止まり、その場で、僧に向か
 って合掌した。僧も、それに応えて、樵に向かって合掌し
 た。樵は、それから、僧に礼を送って、その場を通り過ぎ
 ようとした。僧は、その通り過ぎようとする樵に「もし。」
 と声を掛けた。
 「お尋ね申したいが、よろしいか。」僧は、通り過ぎよう
 とする樵に尋ねた。
 樵は、立ち止まって、「はい。」と答えた。
 僧は、樵に頭を下げた。そして、樵に、目の前に在る、馬
 頭観音の姿に彫られた小さな石仏の由来を尋ねた。
 「お尋ね申したい。こちらにおわする御仏(みほとけ)の
 言はくを御存知か。」 
 樵は、「はい。」と答えた。
 僧は、うなずき、更に尋ねた。
 「いかなる言はくの御仏か?」
 樵は、石仏に合掌した。そして、もう一度僧に顔を向ける
 と、僧にも再度合掌して答えた。
 「聞き及びますには、昔、この場所で、死んだ馬が有り、
 その馬の供養に、この土地のお坊様が、ここで、この仏様
 を彫られたとの事で御座居ます。」
 「馬の供養に?」樵の話の意外さに、僧は、思はず、樵の
 言葉を聞き返した。     
               
                                  


              55

 「昔、この辺りで合戦が御座居ました。」樵(きこり)は、
 そう言って、僧の目の前に在る馬頭観音について語り続け
 た。
 「その合戦の折り、この辺りで、白馬が一頭、息絶えて居
 たと言ふ事で御座ります。恐らくは、合戦に敗れた落武者
 の馬ではなかったかと、この辺りの年寄りは申しておりま
 す。」
  僧は、樵の言葉を無言で聞いた。
 「その白馬を見つけたこの土地のお坊様が、憐れ(あはれ)
 に思はれ、馬の供養にお彫りになられたのが、この仏様だ
 と聞いております。」そう言って、樵は、その馬頭観音に
 向かって合掌した。
                


              56

  樵は、僧に深々と頭を下げ、それから、その場を去った。
 僧は、合掌して樵を見送り、再びその場に一人と成った。
 僧は、馬頭観音の石仏を見つめ、自問した。あの日、ここ
 に現れたあの白い衣の女人は、自分の愛馬の化身だったの
 だろうか?・・・
  あの白い衣の女人は、自分と共に合戦を戦ひ、傷ついた
 白馬が、自分の自刃を止める為に、ここに現れた姿だった
 のだろうか?僧は、余りの驚きに、目の前の馬頭観音から
 目を離す事が出来無かった。
                

              57

  馬頭観音は、何も答えなかった。ただ、その上に、桜の
 枝を通してこぼれる木漏れ日が踊って居るばかりである。     
                

              58

  僧は、馬頭観音に合掌した。そして、あの日、自分の前
 から姿を消した自分の馬の為に、数珠を鳴らし、経を唱え
 た。僧の足元では、桜の花びらが、微風に吹かれて、地面
 の上を踊って居た。        
                

              59

  読経を終へると、僧は、池を後にした。池は、満開の桜
 を映しながら、いつまでも、鏡の様に、静まり返って居た。 

                 
        
             (終)


 平成20年4月9日(水)--4月29日(火)
                  (昭和の日に)

                西岡昌紀(にしおかまさのり)

(この作品はフィクションであり、実在の人物、出来事、等とは
 一切関係が有りません。この作品の著作権は、他の全ての
 西岡昌紀の作品と同様、常に、一貫して、作者である西岡
 昌紀に有ります。批評、批判の為の引用は自由です。全文
 を引用しても構ひませんが、引用する場合は、仮名遣いを
 含めた全ての表現について、変更を禁じます。この作品の
 概要または部分を他の小説、童話、詩、戯曲、随筆、日記、
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 その他に転用、利用する事は固く禁じます。(作者))

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